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野田山・前田家墓所

 野田山墓地(金沢市野田町)は、前田家藩祖・前田利家が兄利久を葬ったのが始まりとされ、その後利家本人もここに葬られ前田家の墓所となった。現在では広大な敷地に室生犀星の墓や戦没者の墓など共同墓地となっている。
前田家墓地の一画に天正9年(1581)12月、前田利家の嫡男で当時越前府中城主であった前田利長(20歳)に輿入れした信長の四女・永の墓がある。

織田信長の四女・永姫の墓

第二代藩主利長公夫人の墓
 玉泉院、名は永 天正2年(1574)織田信長の四女として生まれる。天正9年(1581)越前府中(福井県武生市)に入輿した。豊臣秀吉の側室淀君、二代将軍徳川秀忠夫人崇源院とは従姉妹である。
利長公逝去後は玉泉院と称して高岡より金沢城に移り元和9年(1632)2月に没した。享年50歳。金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、樹木、泉石を配し露地が造られ庭園とした。
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永姫の墓

織田信長の四女・永姫の墓


前田利長の墓

前田利長の墓


【所在地】
石川県金沢市野田町
詳細位置はコチラ

【訪問日】2007年3月4日
【現地を訪れて】
 永姫が前田利長に嫁いだのは天正9年(1581)、永姫は 8歳、利長は20歳の時である。前年の天正8年に信長は加賀本願寺の拠点である金沢御堂を陥落させ、加賀一向一揆を殲滅させており、これから北陸経営を進めていこうとする矢先のことで、永姫の輿入れは明らかに政略結婚である。
政略結婚であるにせよ、なぜ永姫の嫁ぎ先が前田家だったのか。柴田勝家や佐々盛政の一族ではいけなかったのか疑問はつきない。

 永姫の墓は野田山の前田家墓所にあって、前田家藩祖の利家公とその夫人・芳春院(まつ)、および第二代利長公の墓が並ぶ背後にある。墓の位置が利長公と並んでいないのは、野田山の地形に依存しているためだと思われる。
このように書くと、野田山墓地が狭いように思われるかもしれないが、野田山の墓地が狭いわけではなく、それぞれの墓が異常に大きいためである。墓は土盛り型で一辺が10m〜15mほどもある方形の墓、つまり小さな古墳みたいなもので、見た時は少々驚いた。

 滋賀県大津市に武田氏の始祖・新羅三郎義光公の墓があり、これが土饅頭型であるが、加賀藩前田家の墓はそれよりも500年以上も後年のもので、普通なら石塔型のもので造られる時代に土盛りの墓であるのには、何か謂われがあるように思われるが不明。

利家の墓

前田家の藩祖・利家の墓

観 光
金沢城
金沢市丸の内町
・加賀,能登,越中を領した前田利家が、加賀本願寺の金沢御堂の跡地に築城。

高岡城
高岡市古城
・前田家2代目の藩主前田利長が隠居城として築城。


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