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万松寺

 天文9年(1540)尾張一円を領していた古渡城主、織田備後守信秀公(織田信長の父)が織田家の菩提寺として開基。御本尊は十一面観音菩薩、曹洞宗大本山総持寺の末寺。

 開山は信秀公の伯父大雲永瑞大和尚(瀬戸市赤津の雲興寺七世を迎えた)正式の寺号は亀岳林(山)万松寺という。当時の場所は名古屋市中区錦と丸の内2,3丁目にまたがったところで、大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院であった。慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって、ここ大須三丁目に移転した。
当時、寺域は23309坪の広さがあったが、天正元年、三十七世大円覚典和尚が、その大部分を開放し、大須を名古屋の大繁華街とした。
第二次世界大戦で戦災にあったが、万松寺通り、新天地通りなどの商店街と相互繁栄を図って今に至っている。

 天文21年(1552)3月3日に亡くなられた信秀公の葬儀が当万松寺で営まれた際、荒縄の帯姿の信長公が焼香のとき、抹香を位牌に投げつけた逸話は世上に名高く、幾度も劇化されている。また天文16年(1547)三河の松平竹千代(のちの徳川家康公)が6歳の時から約2年間、万松寺で暮らしたことがある。

万松寺
近代的な造りの万松寺


織田信秀の墓 

 織田信秀(法名:万松院殿桃厳道見大禅定門)の墓は、戦後の復興により、万松寺墓地は名古屋市名東区の平和公園に移された。

父信秀の葬儀に信長は香末を投げつけた

 天文21年(1552)万松寺で、織田信長の父信秀公の葬儀が営まれた。当寺開山大雲永瑞大和尚、僧侶約三百名と親族、家臣などが参列していた。しかし、「乱暴者」、「うつけ者」の評判通り信長は喪主でありながら無礼な装いで、焼香の時になってようやく現れ、こともあろうに抹香を手づかみにして信秀公の位牌に投げつけたのだった。

 永禄3年(1560)信長は桶狭間の戦いで奇襲に成功し今川義元を破って天下統一の場に登場した。その出陣の前に、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也、一度生を得て 滅せぬ者の有るべきか」と幸若舞を舞ったとされている。この文言を愛した信長は、五十年に一年たらぬまま、風雲の生涯を閉じたのである。
万松寺四十一世 伊東治雄  現地案内板より


【所在地】名古屋市中区大須3-29-12
詳細位置はコチラ

【訪問日】2005年4月9日

【現地を訪れて】
 万松寺を訪ねて大須の繁華街を歩いていくと、鐘の音が聞こえてきた。位置的にもきっと万松寺の梵鐘の音であろうと、鐘の音のする方向に歩いていくと、寺は無いのに鐘の音だけが聞こえる。どうしたことかとよく見ると、目の前の超近代的な建物が寺であった。この近代的な寺が、信長の父信秀の葬儀が行われたあの万松寺かと一瞬愕然とする。
万松寺のからくり人形劇が、万松寺向かいの中二階辺りで実演されており、万松寺の由緒を広く伝えようとしている姿勢が伺える。これも都市化の波をかぶった寺のひとつの姿かと思った。



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