HOME織田信長と織田一族ゆかりの史跡
金勝山浄厳院
 天正6年(1578)織田信長によって建てられた浄土宗の寺である。
この地には、もと佐々木六角氏頼が建てた慈恩寺(天台宗)の跡地であり現在も大字慈恩寺として地名に残っているが、近江八幡市多賀町にあった興隆寺のお堂(本堂重要文化財)を移し、栗田郡(現在の栗東市)の金勝寺より明感という僧侶を招いて金勝山浄厳院とした。
 また、本尊の阿弥陀如来像(重要文化財)は愛知郡二階堂にあった古寺より譲り受けたもので平安時代の作である。
 ここはまた「信長公記」(太田和泉守牛一著)に見られる、法華宗と浄土宗との間で争われた「安土問答」の場としても有名である。
現地案内板より
浄厳院山門
浄厳院山門


浄厳院楼門(滋賀県指定有形文化財)
三間一戸楼門 入母屋造 本瓦葺 室町時代後期

 浄厳院は近江守護の佐々木氏菩提所である慈恩寺跡地に織田信長が天正年間(1573〜92)、栗田郡金勝山の浄厳坊の僧侶らを移らせ開基した。
 楼門は天文年間(1532〜55)、慈恩寺の楼門として甲良大工により建立(仁王像岩座墨書)されるが、浄厳院の創建にあたり浄厳院の楼門として遣わされた。その後、近世には大きな修理を受けなかったが、明治22年に上階が崩落したので屋根を切妻造りにするなどの応急的修理をされた。
平成8年の解体修理により、建立当時の形式がほぼ明らかになったので、現在の姿に復原・整備された。
 楼門は平面寸法や組物の構成が垂木間隔(六枝掛)を基準に計画されていること、四隅の柱を他より長く延ばすことなど中世の建築に見られる技法を用いている。一方、部材の組み方は非常に整理された近世的なものとなている。
 この楼門は歴史的には佐々木氏に縁のある旧慈恩寺の楼門である。また建築技法的には中世的なものを遺しながら、整然とした近世的なものへと移行する過度的な技法をもった建物として貴重である。  
滋賀県教育委員会


浄厳院の楼門

安土宗論(安土問答)
 天正7年(1579)信長の命により、浄土宗の僧貞安・霊誉らと、日蓮僧日b・日諦らの間で行われた宗教論争。
信長は、京都を中心として勢力を伸ばし、他宗と衝突を繰り返す日蓮宗を押さえようとし、浄土宗に加担。日蓮宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

【所在地】滋賀県安土町慈恩寺
詳細位置はコチラ

【訪問日】2005年4月9日

【現地を訪れて】
 浄厳院は織田信長が近江守護の佐々木氏菩提所である慈恩寺跡地に建てたと云われているが、当時本当に「跡地」だったのだろうか。安土城が完成した安土城下に、先の近江支配者・六角氏の菩提所・慈恩寺があることを嫌って、慈恩寺を取り壊して、その跡に浄厳院を建てたのではないだろうか。
 古いものを壊して新しいものを建てるのは、新たな支配者が領民達の帰属意識を高めるために行う常套手段である。


HOME織田信長と織田一族ゆかりの史跡

近江の城郭