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姉川の戦い(姉川の合戦)古戦場

 元亀元年(1570)4月20日織田信長は3万の大軍を率い西近江街道を北上し若狭経由で越前・朝倉攻めに発進。25日には手筒山城を落とし、翌26日には手筒山城に隣接する金ケ崎城、および引壇城(疋田城)を開城させ、木ノ芽峠を越えて朝倉氏の居城・一乗谷にまさに攻め入ろうとした28日、同盟関係にあった浅井長政の裏切りの情報が入った。
 信長は殿軍を木下籐吉郎に命じ、同日中に朽木越えで京に戻る。京に戻った信長に対し、観音寺城を追われ甲賀に潜伏していた六角承禎は、この時とばかりに一揆衆を蜂起させ、信長を討ち取ろうとするが、信長は蒲生の桜谷の佐久良城城主・小倉右京亮実房の道案内で千種越えで美濃の岐阜城に帰陣する。

 岐阜に帰った信長は兵を整え、6月5日には岐阜を出発。浅井・朝倉軍が中山道沿いに築いた長比城、北国脇往還道沿いに築いた刈安尾城を落とし、小谷城へと攻め寄せた。この頃には信長の軍勢は2万5千人を数えるまでになっていた。
 信長は小谷城を目前に竜ヶ鼻に陣を構え、小谷城の支城である横山城を包囲。この時点で織田軍は、徳川の援軍5千人と合わせて3万4千人の大軍にふくれあがっていた。浅井・朝倉連合軍1万8千人は小谷城を出て大依山に陣を構え、6月28日未明野村・三田に移動し、姉川を挟んで対峙。(現在の野村橋付近)
 戦いは徳川軍の酒井忠次,小笠原長忠の隊が朝倉軍に突入して火蓋が切られ、緒戦は朝倉軍の攻勢で進んだ。一方、織田軍も浅井軍の先方磯野員昌のすさまじい攻撃に第一陣を破られ苦戦をしいられるが、朝倉軍が榊原康政の側面攻撃をうけて崩れだし、浅井軍も左側面から稲葉一鉄、右側面から氏家ト全等の攻撃に耐えかね、織田軍の13段の構えのうち11段まで崩し、信長の本陣を目の前にしながらも潰走してしまった。
 こうして午前5時頃に始まり、午後2時頃までにもおよんだ戦いによる戦死者は、浅井・朝倉軍が1,700余人、織田軍も800余人とみられ、負傷者はその3倍にもにもなると云われている。


姉川の戦いにおける両軍の配置
 小谷城を目指して敗走する浅井・朝倉軍を追って大依山,虎御前山まで進出するも、深入りは禁物として引き返し、横山城を占拠。 敗走する浅井軍の中にあって、磯野員昌は手勢300名を率いて織田・徳川連合軍の中を突破して磯野員昌が城蕃として入っていた佐和山城に立て籠もる。

東から佐和山城を望む

 7月1日信長は佐和山城の周囲に鹿垣を巡らせ、佐和山城の東百々屋敷に砦(丸山砦)を築き丹羽長秀を入れ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西の彦根山に河尻与兵衛を入れて佐和山城に対する付城とした。

 なお、付城の北の山というのは、尾末山とする説(浅井三代記)と 磯山(嶋記録)であるという説がある。浅井三代記に書かれている「尾末山」という山は彦根城佐和山口の一帯にあった山で、慶長8年(1603)に彦根城が築城されたときに取り崩され現在では存在せず、その地名だけが残っています。また南の山は佐渡根山(浅井三代記)という説がある。

姉川の戦い(姉川の合戦)古戦場
 姉川の戦いの行われたのが国道362号線が姉川を渡る野村橋の一帯とされ、現在では川幅は200mほどである。当時は堤防などもなく、おそらく渺々たる河原が広がっていたのではないかと想像される。
 野村橋の背後の山は大依山で、浅井・朝倉軍は小谷城を出て、一時この大依山に陣を構えたという。大依山には陣城らしき遺構が何カ所かに残る。


姉川の古戦場

【所在地】滋賀県近東浅井郡浅井町野村
詳細位置はコチラ

【訪問日】2000年7月

【現地を訪れて】
 姉川の河原に立って、“この河原で両軍併せて4万に近くの軍勢が戦った” ことを想像しようとしても、4万人という人数に実感が湧かなかった。(^^)

【関連リンク】
 中井均氏(米原町教育委員会)の講演:街道を駆け抜けた戦国武将たち 姉川の合戦



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