城砦の縄張り研究〜虎口構造の発達
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 南北朝期から戦国期にかけて戦いが頻繁に起こるようになると、各地で城砦が築かれるようになりますが、
その結果、敵に攻められるなど有事の際に逃げ込む山城から、他国への侵略目的の城、あるいは領地支配のため城などと、城砦としてのあり方にも変遷が観られます。

 こうして城砦の使われ方が変わるに従って、当然のことながら築城の目的に適した選地(築城場所)、縄張り、および普請がおこなわれるようになり、なかでも縄張り、特に城の出入り口である虎口形状の変化は、築城技術の発達を観る上での大きな指標となります。

 こうした縄張りを意識しながらお城を観るのが、お城廻りを醍醐味のひとつであるわけですが、ここでは虎口構造の変化についてご紹介します。

虎口の基本構造と横矢掛け
 城を攻める場合、出入り口である虎口から攻めるのが順当な作戦です。これは虎口部が最も守り弱いためです。
こうした虎口の弱点を補強するためにいろんな虎口構造が考えられてきましたが、最も基本になるのが「横矢掛け」です。

 「横矢掛け」というのは、敵方が意識していない横方向から攻撃するとともに、防具で装備された正面よりも攻撃の効果を上げようとするものです。

虎口構造の基本形
図1 虎口構造の基本形
 「平虎口」と称される虎口の基本型で、虎口構造としてはもっとも初期のもの。
横矢掛けを意識した虎口配置
図2 横矢掛けを意識した虎口配置
 山城などでよく観られるもので、山の地形を利用した虎口配置をすることで、横矢が掛けられるようにしている。

 図2で示した虎口配置を巧みに使っているのが美濃・久々利城安土城です。

横矢構造の発達〜その1
 図2で示した横矢掛けは山城などで地形を巧みに利用したものですが、地形に左右されることなく、横矢を掛けられるように考えられたのが下記図3のように平虎口の変形です。
虎口と横矢掛け

図3 虎口と横矢掛け
 こうした横矢を掛けられる部分を大きくして曲輪としたものを「馬出曲輪」と称する人もいますが、こうした形状は本来の「馬出」とは違います。(馬出に関しては後述します)

 あえて横矢掛けの曲輪部分を表現するとすれば、「出曲輪」というのが正しいでしょう。

虎口構造の発達〜その1
 図2で示したような虎口配置することで、城の守り手側からすれば横矢を掛けられるという利点の他に、攻め手側には直接城内が見えないことで、何処から攻撃されるか予測できないという威圧感を与えることができます。

 攻め手側に心理的な威圧感を与え、また城門を壊されても直接城内を見透かされないように考えられたのが、図4,図5のような食い違い虎口や一文字土塁を配した虎口です。

食い違い虎口
図4 食い違い虎口
 虎口部を食い違い構造にすることによって城内が直接見えないようにしたもの。
一文字土塁を配した虎口
図5 一文字土塁を配した虎口
 虎口前面に土塁などを配置することで、直接城内を見透かされないようにしたもので、こうした土塁のことを「蔀の土塁」ともいう。

虎口構造の発達〜その2
 さて、こうした横矢掛け構造と虎口形状の変化は、バリエーションを加え更に発展していきますが、大きくは二つの流れがあります。
 そのひとつは図4で示した食い違い虎口から発達する「枡形虎口」で、もうひとつは図5から発達する「馬出」とよばれるものです。

 枡形虎口は織田氏や豊臣系の戦国大名の城砦に多く観られるため、織豊系城郭における特徴のひとつともいわれています。
 また「馬出」は甲斐の武田氏や相模の北条氏の城砦に観られ、武田氏の場合は馬出の形状が半円形をしていることから「丸馬出」、北条氏の場合は馬出が方形をしていることから「角馬出」とよばれています。

枡形虎口
外枡形虎口

図6 外枡形虎口
内枡形虎口

図6 内枡形虎口
外枡形と内枡形を組み合わせた虎口

図7 外・内枡形を組合せた虎口

馬出

丸馬出

図8 丸馬出

牧之島城の丸馬出
牧之島城の丸馬出

角馬出

図9 角馬出


広島城の角馬出(二の丸)
広島城の角馬出(二の丸)

 丸馬出は武田系の城郭といわれる静岡県の諏訪原城小山城、あるいは長野県の大島城などにみられる。また後年に築かれた松本城篠山城などにもあったとされるが現在では消失している。

 角馬出は北条氏の城郭とされる滝山城(東京都)や杉山城(茨城県)、あるいは、後年に築かれた近世城郭の広島城なども残されている。

枡形虎口と馬出の違い
 こうして見てみると、枡形虎口や馬出はいずれも虎口防御の変形(発展形)であることには間違いありません。
基本的に異なる点は、枡形虎口が横矢掛けの延長線上で虎口の防御度を上げるために考えられたものであるのに対し、馬出は読んで字のごとく、“馬を出す” ための施設で、当初は敵に気づかれないように出撃準備をするためにつくられたと考えられます。

 言い換えれば、枡形虎口は守備重視、馬出は攻撃性を重視した思想から発達したものと野暮は考えています。(その考え方で図示した赤矢印の方向を変えてあります)
 このことは武田氏の軍記である「甲陽軍艦」の品第四十二の「城取の事」にも、下記のように記され、馬出と枡形とは使い分けられています。
一、すみ馬たし(馬出)の事 よこくるわ(横曲輪)の事
一、まる馬だしの事
一、ますかた(枡形)、ごはちの事


 これは東海・近畿を中心に発達した織豊系城郭と、甲斐,関東を中心に発達した武田系城郭、および北条系の地域性の違いであるともいえます。

 東海・近畿では早くから歩兵戦から鉄砲を併用した戦いへ移行したのに対し、甲斐・関東では馬の産地が多いことから、馬を用いた騎馬戦を重視した施設(馬出)が生まれてきたと考えるのが妥当ではないでしょうか。


 いずれにしても、天正末期から江戸期に築かれた近世城郭では、こうした当初の使われ方が意識されることなく、必要に応じて防御用の一施設として使われたようです。
これは至極当然のことでありますが、現在我々が中世城郭や近世城郭を客観的に観る場合は、是非とも使い分けたいものです。

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