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本願寺と一向一揆
 中世における戦国大名の織田信長や徳川家康、あるいは上杉謙信等は戦国大名同士の戦いに加え、本願寺勢力とも戦うことを余儀なくされています。一方、武田信玄や浅井長政等はこうした本願寺勢力と共同戦線を張ることで戦いを有利に進めています。
 いずれにしても、中世戦国史を語る場合、本願寺勢力あるいは一向一揆を無視することは出来ません。ここでは浄土真宗中興の祖とされる蓮如から始まって、本願寺あるいは一向一揆衆が各地で起こした一向一揆について、簡単にまとめてみました。

浄土真宗中興の祖・蓮如

 浄土真宗中興の祖と云われる蓮如が、本願寺第8世の住持になってから8年目の寛正6年(1465)延暦寺西塔院から、本願寺は“一向専修念仏を唱え、念仏以外の三宝である仏,法,僧を誹る邪法を流布している”として、本願寺打ち壊しの通告を受け、東山・大谷本願寺は延暦寺宗徒(山門)の暴挙によって徹底的に破壊される。
吉崎御坊に建てられた蓮如上人の像
蓮如上人の像

 同年6月に蓮如は近江野洲郡の金森道場に移ったが、ここも山門の襲撃を受ける。 その後、延暦寺との間で和睦交渉がなされ堅田道場に移るが、応仁2年3月またもや山門の襲撃を受け、三河、北陸、吉野地方で布教の後、三井寺山内に新坊舎を建て、山城,摂津、河内を中心に布教活動を続ける。

 文明3年(1471)7月越前と加賀の国境付近の吉崎(吉崎御坊)で布教活動を開始した。
 辻説法や道場における布教に加え、「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり、当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」という表現で名号を重視する浄土真宗の精神を示すと共に、親鸞の難しい教義を庶民大衆が信心を理解し、受け入れやすい平易な教えを説き、門徒宛てに直筆の御文といった手段で浄土真宗の教えを坊主や門徒のすみずみに行き渡らせた。
吉崎御坊の碑
吉崎御坊の碑


 文明6年(1474)加賀の一向一揆衆は応仁・文明の乱で東軍に属した兄・富樫政親と西軍に属した弟・富樫幸千代の兄弟による政権争いに端を発した戦いの中で、生活に苦しむ門徒達は富樫政親と共に専修寺門徒や富樫幸千代と戦う等、その行動は蓮如の意図に反して次第に過激化していく。

 文明7年、蓮如が吉崎を去った後、門徒は一向一揆と化し、戦国時代の一大武装集団となって、長享2年(1488)には高尾城に富樫政親を攻めて自害に追い込む。この時、蓮如は成敗の御書を送って一揆を諌めた。
 文明10年(1478)山城で山科御坊(山科本願寺)の造営、明応6年(1497)には大坂御坊を造営し、精力的な活動を続けた蓮如は明応8年(1499)に85才で入寂する。

加賀一向一揆
 文明6年(1474)加賀の一向一揆衆は応仁・文明の乱で東軍に属した兄・富樫政親と西軍に属した弟・富樫幸千代の兄弟による政権争いに端を発した戦いは、富樫政親を支援する朝倉氏,本願寺と富樫幸千代を支援する,甲斐氏,高田門徒との戦いに発展。

 文明7年(1475)富樫幸千代に敗れ鳥越城に立て籠もっていた富樫政親は本願寺の一向衆の力を利用して守護職に就くが、長享2年(1488)には一向一揆衆に高尾城を攻められ富樫政親は自害して果てる。
この時から加賀の国人,坊主,百姓等による加賀一国支配が始まり、享禄4年(1531)には金沢御堂(現金沢城の地)を建て、下間頼秀を配する。

 元亀元年(1570)織田信長との間で石山合戦が起こると、本願寺8世法主顕如は七里頼周,川那左衛門次郎,宇津呂丹波,岸田新右衛門常徳等を加賀御堂に、また紀伊雑賀の門徒である鈴木出羽守を鳥越城に派遣し、門徒組織の強化を図る。
鳥越城の石垣と城門
鳥越城の石垣と城門
 天正8年(1580)3月本願寺顕如が信長に屈服し、石山合戦は本願寺の敗戦で幕を閉じる。同年4月には、柴田勝家によって北陸における本願寺最大の拠点である金沢御堂が落とされるも、山内衆等が白山麗とその周辺に拠り抵抗を続ける。
 11月には柴田勝家により白山麗を攻められ、また鳥越城二曲城も落城し鈴木出羽守等は自害・誅殺される。

 こうして長享2年(1488)から「農民のもちたる国」として、約100年間続いた一向一揆衆による加賀支配は終わりを告げた。しかし、天正9年(1581)、天正10年(1582)の2度にわたって山内衆は蜂起し抵抗をするが、信長配下の佐久間盛政によって鎮圧される。


越前一向一揆
 永正3年(1506)3月本願寺9世法主実如の命を受けた加賀,能登,越中の一向衆は越前の一向衆と呼応し、30万余という大軍をもって越前に侵入するが、九頭竜川の戦いで朝倉氏に敗れる。

 一向宗との戦いに勝利した朝倉氏は加賀一向宗の本拠である吉崎御坊をはじめとする本願寺の末寺である本覚寺,超勝寺等の諸寺院を打ち壊し、一向宗への弾圧を加える。朝倉氏と加賀一向一揆と対立はその後約60年間にわたって続くが、永禄12年(1569)朝倉義景は本願寺と結び対信長戦に備える。

 元亀元年(1570)4月越前に侵攻し、疋壇城手筒山城金ケ崎城を落とした信長に反旗を翻した浅井長政と結んだ朝倉義景は、元亀元年(1570)6月姉川を挟んで織田・徳川軍と戦う(姉川の戦い)が敗れ、天正元年(1573)には小谷城攻めから急きょ越前に侵入した織田軍によって一乗谷城を落とされ、山田庄賢松寺(大野郡)に逃れ自刃し、朝倉氏は滅亡する。
一乗谷の館
一乗谷の館
 朝倉氏を滅ぼした信長は、桂田長俊,溝江長逸を越前に差し向け、旧朝倉家臣の前波播磨守吉継(後の桂田播磨守長俊)に支配を任せるが、天正2年(1574)蜂起した一揆衆によって桂田播磨守長俊は殺され、越前から撤退を余儀なくされる。
 こうして、越前が加賀一向一揆の領国となったことが、信長公記に記されている。
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 正月十九日、越前の前田播磨、国中の諸侍どもとして、生害させ候由、申し来たり候。子細は越前の大国守護代として居え置かれ候ところに、栄耀栄華を誇り、恣に相働き、傍輩に対し、万事付きて無礼至極に沙汰致すの条、諸侍謀反を企て、生害させ、その上国端境目に要害を構へ、番手の人数を置き、其の後は、越前一揆持ちに罷りなるの由に候。
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 越前を領国とした本願寺は、越前の奪還を目論む信長に対し、下間筑後守頼照を総大将として下向させ、燧城(ひうちじょう)に入れ、本覚寺,西光寺,専修寺などの坊主の率いる一揆勢は、杣山城木ノ芽峠城西光寺丸城鉢伏山城観音寺丸城、および杉津城を守備し信長の侵攻に備えた。

 天正3年(1575)4月に長篠城の西方、設楽原で武田軍を破って、東方の憂いをなくした信長は、同年8月10万余の大軍を率いて越前に乱入。
 信長軍によって杉津城を落とされ、杉津城〜鉢伏山城〜木ノ芽峠城の防御ラインを崩されると諸城は次々に落城した。旧朝倉氏の居城・一乗谷に続き豊原を攻め落とされた一揆衆の越前支配は1年余りで終わりをつげた。

 越前を平定した信長は更に兵を進めて、加賀に進入し、能美,江沼の2郡をも平定し、柴田勝家を北ノ庄(北庄城)に置き、府中城には前田利家、小丸城に不破光治、龍門寺城に佐々成政を置いて、柴田勝家の目付とした。
鉢伏山城の土塁
鉢伏山城の土塁


三河一向一揆
 永禄6年(1563)徳川家康の家臣・菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたため、三河本願寺の空誓(本願寺8世法主蓮如の孫)が中心となって門徒に檄を飛ばし、三河三か寺(上宮寺本證寺勝鬘寺)を拠点として徳川家康に対抗する。

 門徒の中には家康の家臣も多く加わり、一向一揆となって西三河一帯で戦いが繰り広げられたが、翌年2月に和議を結ぶ。
 その後家康は本證寺や門徒達に対し改宗を迫ると共に、本願寺の末寺を破壊するなど弾圧を加えたが、天正11年(1583)には、その禁が解かれた。
三河本證寺
三河本證寺


伊勢長島一向一揆
 永録10年(1567)信長に稲葉山城を追われた斉藤龍興が長島に入ると、信長はすぐさま北伊勢攻めを行い、永禄12年(1569)には北伊勢を制圧する。この時信長は二男・信雄を北畠氏の養子として入れ家督を継がせる。

 元亀元年(1570)には石山戦争が起こり、本願寺11世法主顕如が各地の本願寺の末寺に対し檄文を飛ばし対信長戦争への宣言布告が行われる。
この檄文には、「若し、無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候也」、つまり、“本願寺に協力しない者は浄土宗の門徒を破門する”として、門徒衆に対し信長戦争への働きかけをする。

 顕如の檄文に呼応して長島願証寺を中心とした一揆衆によって攻められ長島城は落城。尾張堀江城も一揆衆に攻められ、信長の弟・織田信興が自刃。
 一揆衆によって肉親を殺された信長は、元亀2年(1571)に第1次長島攻めを行う。翌元亀3年(1572)には本願寺と休戦するが、顕如はこの時期に門徒衆に命じて岐阜城の周辺に要害を築き街道を遮断する。

 天正元年(1573)9月小谷城で浅井氏を滅ぼした信長は、返す刀で第2次長島攻めを行い、桑名周辺の諸城を攻め落とすも、美濃への帰国途中に一揆勢の攻撃を受け、林新次郎等の家臣が討死する。

 伊勢長島一向一揆衆の殲滅に執念を燃やす信長は、天正2年(1574)7月嫡男信忠と共に7万の大軍をもって第3次長島攻めを開始。7月13日には信長自身も出陣し、津島に陣取り圧倒的な軍事力で、まえの島,たろと島,市江島,鯏浦等の諸砦を焼き払う。
 これに対し、一揆衆は篠橋城大鳥居城屋長島城中江城,長島城に分かれて対抗するが、信長は海上封鎖をすると共に兵糧攻めを行い、8月3日には大鳥居城、12日には篠橋城を落とす。これらの城に籠城していた一揆衆は長島城に追い込まれ、9月29日には一揆衆の最後の砦である長島城も落城した。
長島城の城門
蓮生寺に残る長島城の城門


石山合戦

 元亀元年(1570)6月姉川の戦いで勝利をおさめた信長は、阿波に敗走していた三好三人衆が京へ進入の動きを見せると、8月20日に三好三人衆討伐のため岐阜城を出発し、28日には摂津の天王寺に着陣し、野田,福島の砦を攻撃する。

 一方、本願寺11世法主顕如は9月になると三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告する。
 元亀2年(1571)一向一揆衆が立て籠もる近江の志村城を信長に落とされ、ついで近江における一向一揆衆の拠点である金ヶ森城も落とされるが、翌元亀3年(1572)には、顕如と姻戚関係(信玄と顕如の妻は姉妹)にある甲斐の武田信玄も反信長戦線に加え、反信長包囲網の拡大を図る。
蓮如上人直筆の碑
大阪城公園にある蓮如上人直筆の碑
 天正2年(1574)の伊勢長島に続き、翌天正3年には越前の一向一揆衆を壊滅させられ信長包囲網が弱体化すると、顕如は信長に対し屈辱的な講和を申し入れ、10月に講和を結ぶが、天正4年(1576)毛利氏の庇護にある足利義昭と与して、再度反旗を翻す。
  しかし、信長軍によって三方から石山本願寺を包囲され、5月には四天王寺で戦いに敗れた石山本願寺は、経済封鎖によって兵糧の調達は困難を極め、毛利輝元に援助を要請する。
 要請を受けた毛利輝元は700〜800艘からなる水軍を送り込み、織田水軍300艘と木津川の河口で戦闘に及び、織田水軍を駆逐して石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功する。

石山本願寺の推定地
石山本願寺の推定地は大阪城公園内とされる

 木津川河口で毛利水軍に敗れた信長は、九鬼嘉隆に甲鉄船の建造を命令する一方で、天正5年3月には石山本願寺の軍事力を支える紀伊の雑賀と根来衆の討伐に軍を進め、鈴木孫一の居城を落とし鈴木孫一等を降伏させ、天正6年6月九鬼嘉隆の率いる甲鉄船6艘は和泉淡輪沖で一向宗門徒の船を大鉄砲によって撃破することで、信長は大阪湾の制海権を握り本願寺を孤立させた。

 天正8年(1580)石山本願寺との戦いに勝利を確信した信長は、朝廷に働きかけて本願寺と講和を決意。顕如も食料の欠乏に加え、反信長包囲網が事実上壊滅したこともあって、朝廷の斡旋により和議を結び、門跡の顕如は4月9日に石山を退去して紀州の雑賀に落ちた。
 しかし、顕如の子・教如は徹底抗戦を叫んで、そのまま石山で籠城するが、7月17日には信長と誓詞を交わし、8月2日には石山本願寺を退去して雑賀に落ちた。

 永禄11年信長が足利義昭を奉じて上洛以来、常に信長の野望の前に立ちはだかってきた本願寺・一向一揆衆との最大の戦いであった石山合戦は、ここに終結を向かえた。

浄土真宗中興の祖・
蓮如


 浄土真宗中興の祖・蓮如は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた“御文”も用い、また、多くの人が本尊と接することができるようにと「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と説いた

六字名号

六字名号 掛け軸
現在、六字名号は浄土真宗、浄土宗、真宗、天台宗の宗派でも使われています


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近江の城郭