彦根城の見所ガイド 〜甲州流の縄張り〜
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彦根城には主たる門がふたつ

 彦根城の築城は慶長9年(1604)7月に着工し、(井伊家の年譜には8年と記されているが、慶長見聞緑案紙,当代記,自記,寛永諸家系図伝等は慶長9年と伝えている) いずれも2年の工事によって天守閣を含め内堀以内が完成したと伝えています。中郭,外郭が完成するのは元和元年(1615)2月とされています。

 さて、その彦根城の縄張りを見てみると、城内の中核部に入るための主たる入り口として、大手門と表門が相対する位置に設けられています。
彦根城の概略図
彦根城の概略図


彦根城大手門橋
彦根城大手門橋


彦根城表門橋
彦根城表門橋

 この二つの門は、時代の経過と共に、その役割を変えてきています。彦根城が築城された慶長9年(1604)当時は、関ヶ原の合戦(慶長5年)で敗れたとはいえ豊臣秀頼を盟主と仰ぐ大名達が西日本に多くいた時代であり、大阪方への備えとして彦根城が築城されていることからも、大手門が南(大阪方)に開いているのは当然のことです。

しかし、後年、豊臣家が亡び徳川体制になると、江戸向きの表門を利用する機会が増えることになり、実質的には表門が大手門の役割を担うことになります。

 彦根城のように、二つの主たる門を近接して配置している城として安土城を上げることが出来ます。安土城の築城は彦根城築城から遡ること、約30年前になりますが、同様に大手道と百々橋口が設けられています。

彦根城と安土城の共通点は、背後に琵琶湖を控えた “後ろ堅固の城” で、かつ街道が直行するように走っていることがあげられ、地形的な制約から取られる縄張りともいえます。
 しかし、彦根城の縄張りは、大手道と表門道が天秤櫓下で合流することで、鐘の丸(下図の赤い部分)を独立した曲輪、“馬出” としている点が非常に特徴的です。

 馬出の詳細については、 縄張り研究〜虎口構造の発達 で紹介していますので、参考にしてください。
鐘の丸を馬出曲輪に見立てた彦根城の縄張り
鐘の丸を馬出曲輪に見立てた彦根城の縄張り
縄張りは甲州流軍学者・早川弥総左衛門

 こうした彦根城における縄張りの特徴を考えるとき、彦根城の築城に関係した井伊家中の関係者をみることで明らかになります。

彦根城の築城に関係のあったのは、以下の者であったとされています。
 ・縄張り  : 横地修理吉晴,石原主膳由次,孕石源左衛門泰時,早川弥総左衛門幸豊
 ・普請奉行: 富上喜太夫,伴加右衛門.加藤金左衛門
 ・作事奉行: 宇津木新九郎,横内弥左衛門
 ・大工棟梁: 浜野喜兵衛

 このうち縄張りを担当した早川弥総左衛門幸豊は甲州流軍学者で、彦根城が中世城郭、特に武田氏の城郭の特徴とされる“馬出”を備えている理由のひとつとして、早川弥総左衛門幸豊の影響が大きいと考えられます。

 早川弥総左衛門幸豊は彦根城の縄張りをするに当たって、彦根山全体を大きな曲輪に見立てて、馬出曲輪を設けることで、 防御面だけでなく、城から打って出る時のことも考慮して縄張りを考えていたのでしょう。

 このように表門は大手門と共に非常に重要な役割を担っていたわけで、名前を付けるにしても大手門に対して表門と名付けた苦心が窺えます。

 また、彦根城の鐘の丸の内堀に面した周囲が半円形であることについては、いろいろな理由付けがなされていますが、こうしてみてみると、早川弥総左衛門幸豊が "角馬出" より "丸馬出" を好んだためか、それとも彦根山の地形を最大限利用したためか、いずれかであろうと考えられます。

 こうした馬出し状の曲輪を設けた縄張りのお城は会津若松城,松江城など幾つかありますが、いずれも水堀を利用して出丸(曲輪)が造られており、彦根城のように中世城郭の築城思想を引き継いだものではありません。
 彦根城の縄張りは、攻めてくる敵に判らないように馬出曲輪が設けてあることに大きな意味を持っています。

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