賤ヶ岳の戦いの軍道を歩く(行市山砦〜玄蕃尾城) (2002年12月1日) 

 賤ヶ岳の戦いの際に、玄蕃尾城に構える柴田勝家、行市山砦の佐久間盛政を中心とした柴田軍は山中に軍道を造って物資の輸送、軍事行動の迅速化を図ったとされています。
以前から、この行市山砦〜玄蕃尾城間の軍道がどのようなものか、見に行きたいと考えていたのですが、ようやくその機会が訪れ、3人の友人と歩いてきました。
 思っていた以上に難コースで、城巡りにしてはスリリングな経験をしましたので報告したいと思います。

 コースは行市山山頂から尾根を北に歩いて玄蕃尾城までの約4km。行市山砦は標高約650m、玄蕃尾城は標高約450m、4km歩いて200m下ることになります。約2時間あれば縦走できるだろうと見込みをたてました。

 朝8時30分、玄蕃尾城下の駐車場に置き車をして、池原小谷林道を標高400mまで車を乗り付け、持ち物を再確認した後、9時に第一目標地点の行市山山頂を目指して出発。
途中、前田利家父子が陣を構えた別所山砦に寄り、行市山山頂に到着したのが9時50分、小休憩を入れた後、10時に玄蕃尾城に向けて出発、ここまではほぼ予定通り。

 踏み跡のついた道を10分も歩くと、進んでいる方向が徐々に東に振って、方位70度となり、道を間違えたことに気づく。
出発前の地図によるシュミレーションでは尾根道は北から東西に30度ずつ振る程度で、70度も東に向いているのは道を間違えたとしか考えられない。左手(西)を見るともう一本尾根が延びており、尾根を一本間違えたことに気づく。
そんな横道があったのかと、いぶかしく思いながら来た道を戻るが道はなく、熊笹が生い茂る向こうに尾根らしきものが見える。
いきなり藪漕ぎを強いられることに苦笑しながらも藪漕ぎを開始する。出発早々道を間違い、この時点で20分の時間ロス。

 藪漕ぎを始めた頃は胸ほどの背丈だった熊笹が、次第に高くなり背丈を超えるようになると、思うように進めない上に、方向が皆目分からない。
磁石と地図だけが頼りである、とりあえず北へ、北へと藪を漕ぐ。
隠れた倒木に向う脛を打ちつけ顔をしかめながらも、30分ほど藪漕ぎをして、延々と続く熊笹の藪にうんざりしてきた頃、いきなり植林のために熊笹を刈った斜面にでる。
「おーこれで藪漕ぎも終わりや〜」と思いきや、尾根は東に下っている、目指す方向は北。再び熊笹の海に潜り込む入る。

 いつしか熊笹もとぎれ、今度は雑木林を藪漕ぎ、大きな空堀様の谷にでる。「これが軍道か!」
自然地形とも考えられ、不可解な思いを持つも結論が出せないまま進むと、いきなり尾根が途切れ、前は急斜面。どうやらまたルートを間違ったようである。
 地図を何度も見返すが、自分たちがどこにいるのか、さっぱり分からない。周囲の地形から判断すると本来の尾根は2本東の尾根のようである。このとき11時、出発してすでに1時間、果たして玄蕃尾城まで行き着けるのか不安がよぎる。

 谷におり、尾根を越えて玄蕃尾城まで続いているのではないかと思える尾根によじ登る。時間は11時半。
とりあえず、ここで昼食とする。朝6時の食事だったので、腹は空いているはずなのに、あまり空腹感を覚えない、緊張感のせいか。それぞれ持参のおにぎりや弁当を黙々と食べる。
この食事で、残りの食料は乾パンとチョコレート。各人非常食は持ってきているが、2食分はない。
もう1食分の食料を持って来るべきだったのだろうか、そんな考えがフト頭をよぎる。

 Kが携帯電話で城仲間に連絡を取る。「今軍道を行進中、迷ってしまって何処にいるかわからん、いつになったら玄蕃尾城に着けるか全く分かりません〜」そのやりとりが雰囲気を和ませるが、言葉とは裏腹に気持ちに余裕がある者はいない。10分そこそこで食事を済ませ、早々に出発する。全員のはやる気持ちが伝わってくる。
この尾根が正しいのかどうかも分からないが、進むしかない。

 前方に見える山を、地図上で見当をつける。この判断が正しければ、出発地点から1.3〜1.4kmほどしか進んでいないことになる。
現在地点を確認する地形を求めて黙々と歩く。
この辺りの尾根から多少見通しが利き、周囲の地形と地図を見比べながら歩く。平場に出ると、迷った経験を活かし、散会して他にも尾根はないか確認しながら進む。

 出発前に地図上で行市山と玄蕃尾城のほぼ中間地点にある平場には、まだ発見されていない遺構があるのではないかと見当をつけていたのだが、そことても立ち寄る余裕などない。ここに来て初めて自分たちの位置を確認することが出来た。この時の時刻はすでに12時20分過ぎ。

 小さなピークをいくつか越えながらも平坦な尾根歩き、若干の余裕も出てきて、周囲の遺構を捜す。
あちこちに自然地形とは思われない平場が幾つもあり、直径2〜3mの窪地などは無数にある。また、尾根に沿って高さ0.5〜0.8mの土塁と塹壕状の地形も認められる。
これらは軍兵が野営した跡かとも考えられる。

 植林されている杉林に入ると、払われた下枝が幾重にも重なり、足を取られ歩きにくいことこの上ない。しかし、山仕事されている人がいることが分かり、安心感のようなものを感じる。
この辺りから、熊笹、倒木と格闘しながらの行軍で、普段使わない太股の内転筋に疲れが出てきていることを自覚する。全員口数も少なくなり疲れていることは容易に想像出来た。

 12時40分、休憩を入れる。「玄蕃尾城はどの方向かな〜」、「もう見えるはずや」等と話していると、Mが「あそこが玄蕃尾城や〜」と云う。「どこや、どこや」、急に雰囲気が明るくなる。
10時方向に木立が生えていない一画がある、どうやら玄蕃尾城らしい。高圧線の鉄塔の位置からみても間違いはない。
ここまでくれば、もう時間の問題だ。途中で時間がかかったとしても3時頃には着けそうである。景気つけに熊除けにSが持ってきたクラッカーを「パン、パン」と2発ならして出発する。

 また、藪を漕ぎ、傾斜が大きくなった降り斜面に注意しながら行軍を開始。
しかし、目標が見えたことで歩く足取りは自然と速くなる。
途中で、この日4回目となるルート間違いを犯すが、比較的早くにコースを修正。
1時間ほども歩いた頃、「声が聞こえる」と誰かが云った。確かに聞こえる、下の方から、それも非常に近い。
近すぎる声に疑問を覚えながらも斜面を降ると、眼下に白い案内板が見える。
見覚えのある景色だ!
玄蕃尾城下を通る刀根街道に立てられた案内板だとすぐに分かった。
やった、遂に行市山〜玄蕃尾城間の縦走をやった。
全員で歓喜の声、いや勝ち鬨を上げた。
斜度50度ほどの斜面を下りるのももどかしく、滑って下りると、玄蕃尾城から下りてくる高齢の男性2人、女性1人のグループがいた、彼等が先ほど聞こえた声の主であった。
「どこから来られたのですか」との問いに、誇らしげに「行市山から尾根を縦走してきました」と答える。多分相手は行市山がどこにあるのかも知らないだろうが、そんなことはどうでも良かった。

 こんな所で、城巡りに来ている人に逢うなんて、まるで演出されたドラマのシチュエーションように思えた。
親しく、挨拶をした後、一路玄蕃尾城へ。
Kが云う、「整備されたハイキング道がこんなに良いものだとは思わなかった〜」
全員、大声で笑いながらも、靴底で感じるフラットな地面の心地よさと、障害物のない道を歩く楽しさを満喫した。
この日の玄蕃尾城は赤茶色に紅葉した葉っぱが絨毯のように敷き詰められ、今まで何回か来ているが、この時ほど良い城だと感じたことはなかった。

 13時50分、玄蕃尾城天守台に集まり、クラッカーを鳴らし、記念撮影をし、携帯食料を食べ、のどを潤し、行程を振り返りながら達成感,充実感を共有しあった。まさに至福の一時であった。


 これで、私の柴田軍の軍道歩きのレポートは終わりですが、参加されたSさん、Mさん、Kさん、本当にお疲れさまでした。
皆さんは「武闘派」と自称されているだけあって、難コースにもかかわらず一人の落伍者もなく、さすがと感じました。
お陰様で、大変素晴らしい一日を過ごさせて頂きました。ありがとうございました。

2002年12月4日 記 --- 野暮


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再び、賤ヶ岳の軍道(玄蕃尾〜行市山砦)を歩く



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