豊臣家シンポジウム〜秀吉の出世について〜
講師:小和田哲男氏(静岡大学)
(2003年8月23日長浜市文化芸術会館で講演されたものです)

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 日本人が好きな歴史上の人物ということで、NHKがアンケートをとった。そうするとベストテンの10人中6人までが戦国武将が入って、現在の日本人には戦国武将に関心が集まっていると云った結果になった。
歴史読本,歴史群像,そしてプレジデント、これは歴史雑誌ではありませんが、こうした雑誌が読者アンケートと云うことで特集を組むことがありますが、やはり信長、秀吉、家康の三人は必ずベストテンに入っている。
 その時々の政治状況、あるいは経済状況等によって、その三人の順位は微妙に違ってきている。現在は信長が一番とと云う感じです。要するに改革者というか、変革を成し遂げた人物ということで人気がある。
その少し前までは家康が一番でした。長編小説山岡荘八さんの「家康」が会社経営者にとってのバイブル的なもので、人をどう使うかといった興味関心があった。
 その前は秀吉が一番だった。それは底辺から日本人最高のポストまで上り詰めた秀吉の出世が、鮮やかで印象深いといった側面があったと思います。
 日本人の出世願望というものを秀吉が実現したという、爽快さというか見事さがあった。もうひとつは、前の政権に渇仰(かつごう)していた。今支配している政権というものには尊敬もしないが、その前の人物については意外と親近感を持つ、歴史の大きな流れの中でそれが定式化してきています。
 要するに江戸時代の一般庶民というのは家康を始め徳川家の人物には、自分たちを抑圧しているという意識で、そう親近感は持っていない。ところがその前の時代、ユートピアをみるというか、そんな感じがします。
江戸時代に読まれたものに小瀬甫庵の太閤記、また川角三郎右衛門が書いた川角太閤記というのがありますが、これらは江戸時代の人は読んでいません。むしろ江戸時代の半ばに絵本太閤記が出版されて、これが多くの人に読まれた。
幕末になりますと真書太閤記というのが出版されますが、こうした読み物は時代が経つに従って嘘が多くなり、真書太閤記が一番嘘が多いと云うことになります。

 太閤記ものが多くの読者を得たことで秀吉人気が高まっていくわけですが、同時に日本人の持つ出世願望を秀吉の物語を読んで、自己満足をするという側面が出てきている。そうして秀吉出世物語が世間に流布していくということになります。明治以降、出世物語が世に出てくるわけですが、その多くは創作されたもの、偽りの出世物語という側面が多いと云うことになります。そして小説,TVドラマの秀吉もそうした偽られたままの秀吉出世物語というのが結構多いということになります。今日は豊臣家シンポジウムということで、本当の意味での秀吉出世物語というものを追いかけていきたいと思っています。

1.貧しい百姓の倅からの立身出世〜八衛門足軽説と水飲み百姓説の誤り
 多くの方がご存じのように、秀吉のお父さんは八衛門という名前ですが、この八衛門は木下という名字を持っていたという人が多いのですが、実はこの木下性は秀吉が"おね”と結婚してから名乗ることが出来たのもので、秀吉のお父さんの名前は木下八衛門ではなく、ただの八衛門だった。
当時は一口に百姓といっても名字の百姓(当時は「苗字・苗氏」という字が使われています)と名字を持たない百姓がいて、名字を持たない百姓が圧倒的多数だった。
名字を持つ百姓は特殊な百姓で、土豪とか地侍とかという存在で、大きな村ですと10人ぐらいの名字の百姓がいたりした。石田町で石田という名字を持っていたのが、あの石田佐吉(光成の祖先)なわけで、このように郷名あるいは村名が名字になっているのが多い。
それら以外の何百人の百姓は名字を持たない百姓と云うことになります。
 彼らは合戦の時には、武器を持って何人かの被官をつれて戦いに出ていくという武士でもあり、農民でもあるという、いわゆる兵農未分離ということになります。
これが信長、秀吉の段階で兵農分離が進んでくると、そういった連中の中から、専業武士になっていく者と、村に残って百姓になった分かれ方をしていく。

 秀吉のお父さんの八衛門は織田信長のお父さん織田信秀の鉄砲足軽だった、あるいは足軽だったという書き方をしている資料が随分あります。鉄砲足軽だという言い方をしてしまうとそれは嘘だということが分かってしまうわけですね。
八衛門が亡くなったのは天文9年で、我国に鉄砲が伝来してきたのが天文12年ですから、鉄砲伝来よりも早く鉄砲足軽がいたわけはないわけです。足軽と云ってしまうと、それはどうかということになりますが。
 資料の端々から読みとっていくと、織田信秀の専業の足軽という身分ではなくて、むしろ"いざ戦い" と云うときに名字の百姓に連れられていく低い身分だったのではないか。
小作料を免除してやるからということで、戦いに付いていくような身分の百姓だった。
よく、水飲み百姓といった言い方をするわけですが、秀吉の頃にはそう云った言い方は無いわけで、それも間違いだと云うことが出来ます。

 では、なんと表現すればよいかということになりますが、宣教師ルイス・フロイスは後に日本史という本を書いてます。イエズス会宣教師の日本における布教の歴史を過去に遡って書かれた物ですが、付随して信長、あるいは秀吉などの武将についてもかなり筆を費やしていています。
 彼も間違った情報を教えられていたんだろうなと思えるのですが、日本史の中に、秀吉は美濃国にい出てと書いてあります。美濃の出身だと間違って教えられていた。
だけど、その後の文章はかなり信憑性が高い。「貧しい百姓の倅として生まれて、筵(むしろ)で身を覆うしかなかった。若い頃には薪を売ってお金に換えていた」という書き方をしています。
秀吉自身は後に関白、関白の職を退いた後は太閤と呼ばれて、文字通り位人心を極めたものですから、彼が右筆の "おおくらゆうこう" 等に命じて書かせた資料には、天皇落胤説を臭わせるような記述になっていきます。つまり、あまりに貧しい身分から、関白、太閤までになったということは、秀吉としては出来たら過去は消したかった。ということで、自分が書かせて後に残させる資料には、なんとなく自分のお母さんが宮中に宮使いに行ったときに身ごもって、それで生まれたのが秀吉だと書き方になってきているが、外国の宣教師が残した資料によって、その当時の秀吉の本当の姿が出てきた。
 そのことと裏腹の関係にあるのが"おね"で、数年前までは秀吉の正室というと「ねね」と云っていたが、研究者レベルでは今は「おね」としている。
そのおねと秀吉が結婚して初めて、木下という名字を名乗るようになると云う史実が明らかになってきました。その元を辿ると、おねのお父さんは杉原(すぎわら)さだとしという人ですが、その杉原家の元の名字が木下だった。ですから木下家から杉原家に養子に行った元の名字を名乗ることが出来た。

 小説では信長が秀吉を小者とした時に、秀吉の名前を尋ねたときに、名字の無かった秀吉は初めて使えたことのある遠江の松下加兵衛の松下をもじって木下と云ったという説とか、初めて秀吉が信長に謁見したときが大きな木下だったので、信長が木下と名乗れといったとか云われているが、どうもそれらは嘘で、結婚したときに妻の実家の名字を名乗ったというのが正解だ。

2.体力腕力で劣る秀吉が出世できたわけ
 今の時代に秀吉に体力、腕力がなかったことがどうして分かるのかというと、腕力が弱かったということまでは云うことは出来ないかもしれないが、当時の武将たちに比べると秀吉の体格はやや華奢、これは残された画像からも分かる。
長浜城歴史博物館へ行くと、秀吉の肖像画が十数枚残っている。どれが本当の秀吉か分からないが、当時の人たちが秀吉のことを描いた画像はどれを見ても肩幅は小さく華奢で、顔つきは信長が秀吉のことを「はげネズミ」と云っている文書があるが、ちょっとネズミ顔というか、顔が小さい。こうしたことから体力はなさそうである。

 戦国時代の武功というのは、戦いにおいてどれだけ手柄を立てたかで決まってくる。一番の評価基準というのが、敵の首を幾つ取ったか、首の数によってきまる。当然のことながら体力、腕力がないとそういう芸当は出来ない。
秀吉が信長でないほかの武将に付いていたなら、秀吉の本来持っている良さを評価されないまま終わり、秀吉の出世はなかった。
 前田利家の場合は身長が180cm、秀吉は154cmと云われる。その大男の前田利家は大きな槍をぶん回し、14歳の時から戦場に出ていた。当然のことながら、前田利家のほうが出世はが早くて当然だという思いがする。
 秀吉と前田利家はスタートラインが一緒であったが、実際は秀吉はトントン拍子の出世をし、前田利家は足踏みする。
前田利家は信長の同朋衆という茶坊主の拾阿弥を斬って、信長の怒りをかい織田家から追放されたということがあったから、そのハンディはあったとしても同じように使えていれば前田利家の手柄の方が目に付くはずだが、信長は秀吉の方を早く出世させていった。
 それは秀吉が戦わずに勝つという調略の特技を駆使したということに結論づけられると思う。当時中国から伝来していた兵法書には、一番良い勝ち方は戦わず勝つことということが書いてあります。信長も出来れば戦わずに勝ちたいと考えていたし、それを実践して見せたのが秀吉だった。

 最初の舞台が尾張から美濃へ進出していく過程で、信長は城を清洲から小牧山に移す。美濃では斉藤義竜、その子の龍興の時代です。
斎藤義竜というのは斉藤道三の子供で、小説なんかでは本当の子供ではないといった形で紹介されていますが、それはさておき、斉藤道三と織田信長の関係は、最初は信長は道三の娘の農姫と結婚して美濃と尾張は同盟関係にあったけれど、その道三が長良川の戦いで負けて殺されてからは、両家の同盟は断絶。今度は信長が美濃に攻め込むという状況が何年も続くが、美濃の結束力は強く、信長が小競り合いを仕掛けても勝つことが出来なかった。
当然、前田利家等も最前線で活躍をしていたわけですが、信長は裏で斉藤方の家臣たちに手を回して、寝返り工作をしていた。こうした工作に応じる武将がある程度出来た時点で一気に攻め込む、これが永禄10年(1567)8月15日で、稲葉山城の乗っ取りに成功する。
この寝返り工作を一番になって行っていたのが秀吉で、信長としてはこの美濃攻めの一番の功労者は秀吉だと考えていた。その時点から、前田利家よりも秀吉の方が出世が早くなっていく。
決定的だったのが、美濃から近江へ進出してくる過程です。元亀元年(1570)の姉川の戦いを前にした段階で、信長と浅井長政は、信長の妹のおいちが長政に嫁いで、最初は同盟関係にあった。
信長が越前の朝倉を攻めるに至って、浅井長政は朝倉との繋がりの方が、新しい信長よりは強いく、朝倉と手を結ぶことになる。これは長政の決断というよりかは、隠居した身ではあるが、父久政の意向によるところが大きい。
6月28日の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が敗れ、信長は小谷城に籠城した浅井長政を攻めるという図式になる。この時の小谷城攻めの責任者として、横山城に残したのが秀吉だったということで、このあとも秀吉が中心となって浅井攻めをプロデュースしていくことになります。

 美濃攻略に際して、家臣の切り崩し工作は秀吉が自らが木曽川沿岸の蜂須賀小六とか、川波衆を使って寝返り工作をやったが、浅井氏家臣の切り崩し工作は、美濃の菩提山城主の竹中半兵衛をつかって、近江の浅井長政の武将たちに寝返り工作を仕掛けている。
竹中半兵衛は斎藤竜興の家臣であるが、19人で稲葉山城を乗っ取ったという経歴の持ち主ですから、信長もその辺りは目を付けており、斉藤家が滅びた後、半兵衛を家臣に加え、与力という形で秀吉につけています。
与力というのは、最初から半兵衛が秀吉の家臣であったと云うわけではない。信長の家臣を秀吉につけた、その意図は半兵衛が近江に近いところに住んでいため、近江の武将とも人脈があった。そうした者をうまく使いながら浅井の切り崩し工作を行ったというのが、元亀元年から天正元年の時期です。
 秀吉は、比叡山の坊さんから武士に転身した宮部継潤が手強い相手だといいうことで寝返り工作を進めるために、自分の甥(秀次)を養子にして送り込んだ上で寝返り工作もしている。浅井方の武将も一人寝返り、二人寝返りで、とうとう天正元年に山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)も寝返ってしまい、信長はこれを機会に小谷城を攻めることになる。

 天正元年9月1日に小谷城は落城する。古い文書を見ると小谷城は焼けたと書かれているが、その後発掘調査が行われた結果、焼けた形跡はない。それもそのはず、その後、すぐに秀吉が接収して城として使っていた。
小谷城は比高も高い山城だったため、秀吉も当時は今浜と呼ばれていた長浜に築城して城下町にした。
小谷城入城の時点で秀吉には北近江三郡、12〜13万石(後の太閤検地の石高)の大名となる、北近江三郡を領有し、小谷城の城主となったということは織田軍団の中では、早い出世である。信長家臣団というと柴田勝家、丹羽長秀が双璧で、現に秀吉自身も丹羽の羽、柴田の柴の1字づつ貰って羽柴としている。佐久間信盛、林秀定といった宿老格が何人かいたところに、新しく入ってきたのが光秀であり、秀吉であり、近江の甲賀郡の忍者だったと云われる滝川一益等も急速に台頭してくる。

 信長は土地は与えないで、城の城主に任命するというのはあった。それは城を守るためだけの役目で、一国一城の城持ち大名とは違う。織田軍団の中で一番最初に一国一城の主になったのが坂本城の明智光秀で、志賀郡が与えられており、二番目が秀吉と云うことになる。
天正元年の時点で秀吉は前田利家とは差を付けています、ちなみに前田利家が一国一城の主になったのが、天正3年(1575)の越前を平定した時で、府中(武生市)に府中三人衆とという言い方で、配属される。
お互いに牽制させるとい狙いもあったのだと思いますが、前田利家、佐々成政、不破光治、この三人で10万石、秀吉の12万国とは大きな差がついている。しかも2年遅れで、いかに信長が秀吉の働きぶりを高く評価したということが窺えます。

 体力・腕力のない秀吉が出世できたのは、信長という人の能力をうまく引き出す特殊な能力を持った人についていたからではないかと思います。また、秀吉はアイデアを出す人物として知られているわけですが、7年前に私がNHKで時代考証をしたときのことです。

 清洲城の石垣が百間崩れた時に、ある武将が普請奉行に任命されて隅の方から、ひとつひとつ積んでいこうとした、それを見ていた秀吉が「危ない、あぶない」こんな調子じゃ、いつになるか分からないと呟いた。勿論、信長に聞こえるように。
信長が、おまえなら何日でできるか、秀吉は3日でやって見せますと答えた、それならば、やらせてみようと云ったことで秀吉が石垣普請請け負うことになりますが、この時、秀吉は百間の石垣を十間づづ、十組に分けて競争させます。この競争というか、分けて普請させることを「割普請」といいますが、今までの人たちは考えても見なかったやり方で、
これが後の築城ラッシュの時代のオーソドックスなやり方になっていく。このルーツはまさに秀吉の清洲城の石垣の時のやり方である。
 大河ドラマでこの清洲城の石垣の割普請のシーンでは、私は時代考証者の立場として抵抗した。清洲城に信長の時代の石垣が見つかっていないので、信長時代に石垣があったとは云えない。石垣ではなくて土塀が崩れたと、板塀が崩れたとか、そういった形で撮影してくれないかと主張したのですが、土塀が崩れてそれを治すのでは迫力がないので、結局石垣でやることになってしまった。
その後、清洲城から石垣が見つかったというニュースがありました。ただその石垣は信長の時代というよりも信雄の時代の石垣ではないかと私は思っている。いずれにしても、そこで初めて割普請を行ったのが石垣だったかどうかは、若干問題ががあるが、そういうアイデアを秀吉が出したことは確かだろうと思います。

 兵庫県の光源寺の文書に天正11年(1583)8月28日付けで、3日後の9月1日に大阪城の築城が始まることが記されている。その直前に秀吉が大阪城普請総奉行の黒田官兵衛(後の如水)に宛てた石運びの掟書きというのが残っています。その掟書きは五箇条に渡っている。
秀吉の偉いなと思う点は、自分の過去やってきたことから反省すべき点を検証していることです。大阪城築城の時点で、いくつかの城普請の経験(横山城長浜城,姫路城,山崎城等)を反省材料としてチェックしている。特に石運びに限定して5項目で黒田官兵衛に覚え書きを渡している。
この3条目に、非常にユニークな内容ですが、「それまで石垣を運ぶ人たちが、石垣を積みに行く人と、積み終わって戻ってくる人とが、一本の道でぶつかっては不都合である、これからは片に下りて通るべし」つまり片側に降りて通ればぶつからないといった規定を出しています。
しかし、残念なことに片に下りてというだけで、左側に寄ってとは書いていない。どうも、これが左側通行を指示した最初の文書ではないかと私は思っています。その当時、石垣を運ぶだけの人足とともに武士も移動するわけですから、武士たちは左側に刀を差しているので、もし右側通行だとその鞘と鞘が当たるおそれがある。そうなると、鞘当てというのは喧嘩の原因になります、そうなると、この当時秀吉が片側通行をしろと云ったことは、左側通行をしろといったのではないか。

 こうした秀吉の持つアイデアを信長が吸い上げた、これによって信長も美濃攻略の時にはほとんど戦わずに勝つことが出来た、近江の浅井との時も、若干時間はかかったが、犠牲を多く出すことなく倒すことが出来たという点では、秀吉を抜擢したことが正解だったということ云えるのではないかと思います。

3.秀吉を支えた家族の実像
 秀吉はおねと結婚することで、初めて名字を持つ階層になることが出来たと云いましたが、残念ながら、おねとの間には子供は恵まれなかった。従来は、秀吉側に問題があるのではないかといわれています。作家の司馬遼太郎さんは、はっきりと「鶴松と秀頼は秀吉の子じゃない」と言っていました。
、私は長浜における石松丸の存在、あるいは秀勝の存在からすると秀吉に実子はいたと思います。となると、おねに子供がいないのかと云うことですが、囲碁の本で爛柯堂棋話(らんかどうきわ)という本がありますが、その中に面白い記述が載っています。
 秀吉とおねが結婚したとき、秀吉は確か24歳、おねが14歳(だったか忘れましたが)、おねはすぐに妊娠したのだそうですが、足軽になりたてで、家も貧しく、子が産まれても育てられるか分からないし、出世の妨げになるというので、お灸を使って妊娠中絶をしたということが出てきます。こうしたことを何回か繰り返しているうちに、妊娠することが出来なくなったと云います。どこまでが本当なのかは分かりませんが、当時、そうした話があります。
 実子がいない代わりに、おねは子飼の武将として加藤清正や福島政則たちを育てるという形で、秀吉政権の展開に大きな影響を与えていることは間違いありません。
おねが、後に武功派と云われる彼らと、近江で採用された武将たちとの意志疎通が図れなかったことについては、若干問題点かなと云うことが出来るかと思います。
秀吉が長浜に入ってきた時に石高性を採用し、子飼の家臣たちに一定の石高を与えてたことが、その後石高で家臣達を縛っていくことになります。

 秀吉は湖北三郡を洗えられ、12万石の一国一城の主になったときから、それまで自分に使えていた尾張の武将、あるいは信長からつけられていた与力だけではやっていけない、もっと家臣の数を増やさなければならなくなり、鷹狩りとか、巡検をしながら、使えそうな家臣たちをピックアップしていく。
いつの時代でもそうなんですが、滅ぼされた遺臣たちがいっぱいいるわけで、秀吉は浅井の遺臣たちを抜擢していく。片桐勝本、脇坂安治もそうですし、藤堂高虎,石田三成等、秀吉が家臣とした武将たちは、近江が商業的な先進地であるというという土地柄もあって、武将たちの多くが商業的感覚を持っていた。
そうした武将達を家臣団に加えることが出来たことが、その後秀吉がトントン拍子に出世していく大きな要因のひとつになったんだと思う。
 石田三成,長束正家,増田長盛等、五奉行の三人までは近江出身です。ただ、増田長盛はどうかなと云う説もありますが、少なくとも石田三成、長束正家の二人は確実に近江の出身です。
近江というのは商品流通経済が盛んだったことが、商業的武士の発生が密接に関係していあたと考えられます。こうして近江では商品流通経済が盛んだったことが、賤ヶ岳の戦いで、勝家が北陸であったのに対して、秀吉は近江を押さえていたということが優位性となり、後の秀吉政権を支えたということが出来ます。

 補佐役・秀長の役割についても注目しておく必要があります。極端な言い方をしてしまえば、秀吉は秀長がいたから、あれだけ出世できたんだと思っています。
秀長は通説では秀吉のお父さん違いの弟、つまりお姉さんの"とも" と秀吉は八衛門と"なか"との間に産まれた子供で、秀長と朝日姫は"なか"が再婚した筑阿弥との間の子供と云われています。
しかし、秀長と朝日姫の生まれた歳を考えると、八衛門は生存中ですし、"とも"も秀吉も秀長も、朝日姫も、八衛門も子供というようにとらえています。
 天正13(1585)の四国攻めの時に、出陣前に秀吉が急に病気になり、秀吉の代わりに秀長が四国に渡っています。
その前には秀吉が信長に命ぜられて四国攻め行った時に、秀吉自身は播磨・姫路城を本拠にしながら山陽方面を攻め、秀長が但馬、因幡方面を攻めています。このように血を分けた弟が分身として秀吉の快進撃を支えたと云えます。このように秀吉の出世の背景には、妻・おねは勿論のこと、弟・秀長の存在を忘れることは出来ないと思っています。

 秀長が大和郡山で100万石を領有して豊臣政権の屋台骨の1本になっていく、ところが残念なことに秀長が天正19年(1591)正月22日に病死する。この後から秀吉は相当おかしくなっていく。秀長が亡くなって50日ぐらいしか経っていない段階で千利休の切腹という事件が起きます。
千利休は単なる茶の先生ではなく、豊臣政権内部における一種のもうひつぎ的な存在で、大名たちが秀吉に何か云うときに、ルートとして大きな役割を果たしていた千利休が切腹させられます。次に秀次を高野山に追い込んで切腹させてしまう。さらに切腹させただけではなくて系類(正室。側室)を39人を京都の三条河原で虐殺といってもよい殺し方をする関白秀次事件、あるいは朝鮮への二度に渡る出兵、この朝鮮への出兵が豊臣政権の屋台骨を崩していくことになる。

 こうして、秀吉に晩年には幾つかの暗黒事件が立て続けに起きてくる。しかも秀次が亡くなった後起きてくると云うことは、ある段階までの秀吉というのは秀次があったから政権を維持できたと思っています。
同様に、足利尊氏と直義、源頼朝と義経兄弟のように、ある段階までは兄弟の仲が悪くなった段階で、どっちかが粛正されてしまう例が多かった。豊臣政権の場合はその仲は良かったが、秀次が先に死んだことで、秀吉というか豊臣政権がおかしくなる。
 秀次は近江八幡(八幡山城)では町を造ったことで人望を集めているが、世間一般では、殺生関白・秀次として知られている。私自身は、秀次が暴君であったとは思っていない。こうした宣伝をすることによって、秀吉が秀次を殺した正当性を示す材料に使われているのではないか。

4.前向きに生きた秀吉から学ぶもの
 信長が天下布武というスローガンを掲げて天下統一に乗り出した。信長・秀吉の時代は、日本で云えばバブル経済期と同じで、右片上がりの連続であった。
つまり、武士たちは戦いに出て、戦に勝って土地を広げて、あるは恩賞として土地を貰うことで、自分たちの欲求を満足させていった。秀吉は信長の天下布武とは違うやり方で全国統一に成功していく、その戦略家としての側面は非常に重要だ。

 秀吉は貧しい百姓の倅として生まれ、源氏でもない、平氏でもない、藤原でもない、橘でもない(源平藤橘を天下の四姓という)秀吉があれだけの身分にのし上がったと云うのは個人的な魅力と運が良かったと側面もあったのではないかと思います。
秀吉は征夷大将軍を望んでいたが、慣習としては武士では源氏しか任命されていません。ですから秀吉も最初は源氏になろうとした。一番手っ取り早いのが、信長によって追放されてはいたが、まだ生きていた足利義昭を買収して足利になりすますということで、実際に動いている。
義昭に毎年1万石やるから猶子(ゆうし)にしてくれと云ったが断られた。猶子とは養子とは違って、名前だけの親子を云う。

 天正12年(1585)の小牧長久手の戦いでは、秀吉は総合力では勝ったが、局地戦では幾つか負けている。
その結果、関白を狙います。関白になったことで、「武家関白」として、天皇の命を受けて全国の諸大名を戦いをなくするんだということで「総無事令」(別名 平和令ともいう)を出します。それを前面に押し出して、力で九州攻め、小田原攻め等、天正18年(159)には全国の戦国大名を滅ぼしてしまう。
 秀吉の功績というか、やったことは全国的な戦いを終わらせたのがひとつ。もう一つが、大阪城にしても伏見城しても、いろんな城を造っている。よく武将として一番たくさん城を造ったのは誰かという質問を良く受けるが、自分が住むための城を一番多く造ったのは秀吉だろうと思います。
他の人のために、たくさん城を造ったのは藤堂高虎ではないかと思います。
秀吉の築城と町づくりが、その後の日本における町づくりにおいて大きな意味をなしていた。
秀吉は戦国争乱に終止符を打とうとしていた、その理由は戦国時代が戦いの連続であって、人は殺され、家は焼かれ、安定に持っていく道はないか
信長が天下布武というスローガンを出したが、これは公家,寺家,武家(三つの権門)が補完しあっていた世の中から、武家だけが天下の権を握るというシステムに替えていこうとしが、それは完成しなかった。
一方、秀吉は寺家とも公家とも仲良くやっていくという武家政権の原点に戻るといったスローガンのもとに天下統一を果たそうとした。
信長の天下布武を少し入れ替えていくような筋道を造ることによって、天下統一に成功したんだろうと思います。


以上

    2003.12.27 文責:箕浦



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