街道を駆け抜けた戦国武将たち・賤ヶ岳の戦い
開催日時:2001年3月4日(日)午後2時00分〜3時30分
講師: 中井均氏(米原町教育委員会)

HOME < 現地説明会および講演の要旨集 < 街道を駆け抜けた武将たち〜賤ヶ岳の戦い

【合戦に至るまでの経過】
 天正11年6月2日 本能寺の変
13日 山崎の合戦 羽柴秀吉の迅速な行動(中国大返し)で勝利
27日  清洲会議 羽柴秀吉,柴田勝家,丹羽長秀,池田恒興が出席し信長の跡目を決定
羽柴秀吉は信長の孫(長男信忠の嫡男)の三法師を担ぎ出し、柴田勝家は信長の三男・神戸信孝を推挙するが、丹羽長秀,池田恒興等が秀吉についたために三法師に決定。

【清洲会議後】
 清洲会議後秀吉は信長の葬儀を延期し、山崎城(天王山城)を築いている。秀吉にとって信長は神にも等しい存在であったはずの信長の葬儀を延期してまでも山崎に城を築いた時から、秀吉は天下を意識し始めたのではないか。
 
 清洲会議では信長の跡目相続だけでなく、「軍事的緊張を作り出すことを避けるため新たに城を造らない」との取り決めがされた。
この取り決めにも関わらず、秀吉は山崎(天王山)と八幡(石清水八幡宮)に城を築き、1年余り山崎城を居城としていた。この時に勝家は秀吉に宛て「直ちに城を潰さなければ、自分が自ら出ていって城を潰す」と云った内容の手紙を書き送っている。こうした秀吉の行動が、原因となって賤ヶ岳の合戦へと展開してゆくことになる。

【賤ヶ岳の合戦】
 天正11年2月柴田勝家は佐久間盛政,前田利家に越前から湖北へと進出させ、3月12日には自らも内中尾城に着陣。行市山に佐久間盛政,別所山に前田利家を配し、そのほか山寺山,中谷山林谷山など布陣を終える。
 3月17日には秀吉も木之本に着陣し、左禰山(東野山)堂木山,神明山.茂山,田上山に布陣し両軍対峙する。
当初、秀吉軍は天神山に砦を築いていたが、余りにも勝家軍と接近していたために、この砦は撤収される。

【秀吉軍の布陣】
 明治時代に描かれた賤ヶ岳合戦の絵図には左禰山から堂木山間に2本の柵列が書かれているし、賤ヶ岳の七本槍の一人の脇坂家に伝わる絵図にも柵列が描かれており、江戸時代の軍学では、秀吉軍が北国街道を柵列で封鎖していたことは常識となっている。
 また、左禰山砦の南側には竪堀が掘られているが、この竪堀が麓まで続いて柵列に繋がっていた。北国街道だけでなく山の斜面も含めた広域封鎖であった。
 この年の3月に秀吉が残した手紙が長浜城の博物館に所蔵されている。この手紙には「惣構えの堀より外には草刈りふぜいに至るまで出ることを禁ずる」また「惣構えの堀より鉄砲を撃つことを禁ずる」としている。この "惣構えの堀" とは一体何かということだが、姫路城や彦根城で惣構えの外とは外堀を指している。つまり秀吉軍は一番外側の堀、左禰山から堂木山に至るラインに堀を掘っていたと考えられる。
 左禰山砦,堂木山砦,田上山砦を見ていくと、総じて秀吉軍は複雑で大規模な陣城を築き、惣構えで街道封鎖を行っていた。

【勝家軍の布陣】
 勝家は内中尾城(玄蕃尾城)に本陣を置くが、この内中尾城は勝家が清洲会議後に湖北三郡12万石を所領とした時点で北之庄城との中間地点である江越国境に築いたものであり、現在も見事な遺構が残っている。
 この内中尾城を除くと勝家軍の陣地は、"尾根を切る" あるいは "尾根を二段ぐらい削平する" 程度の普請である。これが賤ヶ岳合戦の本質を表している。
 勝家軍は秀吉軍の街道封鎖により南下できないので、山々を伝って南下するための軍道を造っている。これが「賤ヶ岳合戦覚書」や「余呉庄合戦覚書」には "勝家軍は陣城と道幅3間の軍道を造った" と記されている。
 勝家軍の配置は攻撃するための陣地の作り方であったと考えられる。

【秀吉軍の防御ライン】
ここで、秀吉軍の陣城を個別に見てみると、左禰山砦には馬出しがあり、陣城自体が複雑な構造をしている。また、田上山城の南側には土塁はなく、北に向いた城であることがはっきりとしているし、土塁には折れがあり、横矢を掛けられるようになっている。
これらが賤ヶ岳合戦における秀吉軍の第一防御ラインである。

 しかし、第一防御ラインで北国街道が封鎖されていても、佐久間盛政の行市山からは集福寺坂〜文室山〜権現坂〜賤ヶ岳へと出ることができる。
これを防ぐために大岩山砦には中川清秀、岩崎山砦には高山重友、賤ヶ岳に桑山重晴,
羽田正親,浅野弥兵衛を配して第二防御ラインとした。しかし、これら陣城の遺構はなにも残っていない。あるいは残っていても空堀の幅は1m以下、土塁の高さは0.5〜0.6m程度しか残っておらず、第二防御ラインはの防御施設は貧弱であったことが判る。

 いずれにしても、秀吉軍の陣城は勝家軍の内中尾城に較べると規模の違いが明らかである。これはそれぞれの陣城で勝家軍の攻撃を防ぐのではなくラインで防ぐとの考えであったと考えられる。
また、複雑な構造をしているのは陣城といえども城としての形を作ることで大名としてのランクをつけるというが重要であったと考えられる。

 秀吉はもし第一,第二防御ラインが突破され勝家軍が長浜平野に出てきた時のことも考えていたことが文書で判る。天正11年2月浅野長幸に宛てた手紙の中で「横山の城を普請せよ」と命令している。この当時の横山城は10年前に小谷城の落城と共に廃城となっていた。

 また、証明するのは難しいかもしれないが、小谷城の福寿丸山崎丸に残る見事な遺構は、賤ヶ岳の戦いを想定して修理した可能性がある。

 もう一つ、勝家軍が北国街道ではなく若狭〜朽木〜京へ出てくる場合のことも考えて、天正10年11月(勝家が北之荘を出陣する4ヶ月まで)に小浜の後瀬山城を築くことを命じている。

 こうして秀吉は賤ヶ岳の戦いに備えて余呉湖,木之本周辺だけでなく、用意周到に準備をすることで賤ヶ岳の戦いに勝利し、天下人としての第一歩を踏み出すことになる。
 賤ヶ岳の戦いは4月20,21日で終わってしまったが、決してこのような短期間の戦いではなく、2月
に佐久間盛政,前田利家が越前を出発して以来2ヶ月間に及ぶ対峙戦であったのである。


文責:箕浦




賤ヶ岳の戦いの軍道を歩く(行市山〜玄蕃尾城)レポート
再び、賤ヶ岳の軍道(玄蕃尾〜行市山砦)を歩くレポート 


 近江の城郭に戻る