街道を駆け抜けた戦国武将たち〜関ヶ原の合戦
開催日時:2001年3月11日(日)午後2時00分〜3時30分
講師: 中井均氏(米原町教育委員会)

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プロローグ
【南宮山から関ヶ原が見えない】
◆何年か前、南宮山から東へ1kmのところにある南宮山陣城(毛利秀元陣)へ登った時、その地点からは南宮山に隠れて関ヶ原方面が見えなかった。しかし大垣方面は一望することができた。南宮山は関ヶ原の戦いで、毛利秀元が陣を構えたところで、関ヶ原方面が見えないということはどういうことか、従来から言われている関ヶ原の戦いに疑問を感じた。
また、南宮山陣城の堀切や土塁の防御施設は、南東にある大垣方面に対して築かれている。これに対して関ヶ原は西に位置しており、全く逆の方向である。
 南宮山社の裏山に陣取った安国寺恵瓊の陣城にしても、大垣方面は見えるが、関ヶ原方面は見えない。長宗我部盛親や長束正家の陣も同様である。
しかし、唯一松尾山の陣城だけは関ヶ原方面を望むことができる。が逆に大垣方面は見えない。

【要衝松尾山をめぐって】
 松尾山に関しては従来の研究では評価されていないが、西美濃地域最大の山城が築かれている。枡形虎口や馬出し,横矢等が設けられており、近世城郭の築城技術が取り入れられた山城である。
関ヶ原の合戦は、この松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りにより東軍が勝利するが、「寛政重修諸家譜」によると、小早川布陣の仔細は以下のようである。

●「九月十四日、正成、諸士と相議し、兵を率いて美濃におもむき松尾山の新城にいり、その城主伊藤長門守某を追い払う」(「寛政重修諸家譜」所収「稲葉家譜」)

 文書によると、小早川秀秋は関ヶ原合戦の前日に松尾山に入り伊藤長門守某を追い出したとあるが、松尾山の山城を小早川が一日で築けるわけがない。
 ここに出てくる伊藤長門守某とは当時の大垣城・城主であり、8月10日に石田三成、毛利秀家、島津義弘等に大垣城を明け渡した後、この松尾山に籠もって築城したのではないかと考えられる。
従来、伊藤長門守某は西軍方に大垣城を明け渡した後、大垣近くを守備していたと考えられていたが、この状況から考えて松尾山を守備していたと考えるのが妥当である。
もう一つの文書、遍照山文庫所蔵の「浅井長政松尾山を占領す」によると、浅井氏が江濃国境の境目の城として元亀元年(1570)に修築したともある。

●遍照山文庫所蔵の「浅井長政松尾山を占領す」
永禄之比、信長卿後合戦之節、浅井麾下堀次良、濃州長享軒之城ニ家臣樋口三良兵衛ヲ差置、次良依幼少樋口執柄タリ、其頃信長公ヨリ秀吉エ仰アリケル故、重治長享軒ヘ行テ樋口二有對面、信長ニ郷属セシム、信長公御感有テ、時ノ為御褒美則鎧一領刀一腰黄金等重治二被下ケルト也、此刀関ノ元重ナリ云々
右長享軒ト云ハ、不破郡松尾山之事也、古城ノ跡残レリ

ここでは城将に樋口直房を派遣しているとあり、樋口直房は鎌刃城・城主堀氏の家臣であり、長比城刈安尾城とともに松尾山も境目の城として機能していたと考えられる。
その後、松尾山は織田信長の持ち城となり、不破光治が城主となるが、不破光治が越前へ転封され廃城となると伝える。しかし前述したように松尾山には枡形虎口や馬出し、横矢などが設けられ、浅井長政時代のものではないことは明らかである。ただ松尾山の西に位置する曲輪だけは土塁などもなく、中世城郭のそのままであり、浅井氏時代のものであろうと考えられる。
こうした点からも松尾山が関ヶ原でなく江濃国境および、東山道を睨んだ城であったことと、浅井氏が入る前から城郭が築かれており、それを元亀元年以降に浅井氏が修築し、さらに関ヶ原合戦時に伊藤長門守某が修築したものであることが推定される。
松尾山の布陣について石田三成が増田長盛に宛てたの書状には次のように書かれている。
●「江濃之境目松尾山、何れの御番所にも中国衆入可被置、御分別尤もにて候、」(慶長五年(1600)九月十二日付、増田長盛宛石田三成書状)

ここに出てくる中国衆というのは毛利秀元のことを指していると考えられ、石田三成は江濃国境を押さ、西軍の最終防御ラインである松尾山には、西軍の総大将の毛利秀元を入れるべきだと考えていたのが判る。

【関ヶ原における西軍の陣跡】
◆一方、関ヶ原の合戦の前日9月14日に大垣城から関ヶ原に移動している石田三成の陣跡の笹尾山や、天満山にある小西幸長 宇喜多秀家の陣跡は、陣城の構造がとられていない。これは合戦の前日に移動したため防御施設を築く時間がなかったためであり、当然のことである。
これからも、西軍の布陣は大垣合戦を想定したものであったが、思惑とは異なり関ヶ原でで戦うということになってしまった状況が伺い知ることができる。

◆【関ヶ原の戦いは仕組まれていた】
 こうした状況をつなぎ合わせると、合戦の地が大垣から関ヶ原に変わったことを察知した小早川秀秋が西軍陣城から関ヶ原を一望できる松尾山を占拠したのは、事前に思惑があってのことではなかったか。
つまり、小早川は寝返ることを合戦当初から決めていたのではないか、徳川軍が小早川軍に向かって撃った鉄砲は威嚇のためではなく「合図」ではなかったのか・・・・・・・・・・。

エピローグ
関ヶ原の合戦は平和をもたらしたか。
 関ヶ原の合戦以後、東軍及び西軍大名の転封,減封,除封が盛んに行われ、これらの国替えによって隣国との国境線防備等、軍事的緊張が高まることになる。
こうした軍事的緊張の中で盛んに境目の城が各地で築かれる。
安芸広島城は毛利輝元が築いた城であるが、毛利家は長門へ減封され、安芸には福島正則が入る、こうした状況の中で安芸には小方城(亀居城),三好城,東城,神辺城等が築かれる。
また、筑前六端城もそうした境目の城である。

文責:箕浦 2001.3.15



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