街道を駆け抜けた戦国武将たち・姉川の合戦
開催日時:2001年2月25日(日)午後2時00分〜3時30分
講師 :中井均氏(米原町教育委員会)

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姉川の戦いはなぜ起こったか
 浅井長政は織田信長の妹お市を娶るが、織田信長の朝倉攻めにおいて反旗をひるがえす。
これには、浅井家と朝倉家の関係を明らかにすることなく語れない。
まず、ひとつには浅井氏が江北を支配できたのは、朝倉の後ろ盾があったからである。
その検証を古文書だけでなく、城館遺跡を中心に検証していきたい。

小谷城の検討
小谷城内には金吾丸という曲輪がある。この金五丸の名前の由来は、朝倉教景が作った曲輪(砦)であるため金吾丸との名前がつけれている。(朝倉教景のことを金吾という)
浅井の居城に他の戦国大名が曲輪を作ること自体通常では考えられないことである。

小谷城内にある月所丸には畝堀が8本確認されている。小谷城で畝堀があるのはここだけで、朝倉氏の本城一乗谷には百数十の畝堀が確認されている。
おそらく月所丸は築城術に長けた朝倉氏の指導の元に作られたのではないかと推定される。

 以上、小谷城を検討することで浅井の後ろ盾に朝倉氏がいたということの証明になるのではないか。

 次に禁制(キンセイまたはキンゼイと読む、室町時代にはキンゼイ。 ある行為をさしとめること。また法度)について検討してみる。
禁制とは戦国大名が発給した文書であるが、姉川の戦いにおける上級軍奉行である朝倉景健(かげたけ)が出した禁制には「仍下知如件」(よって下知くだんの如し)と書かれ、浅井長政の禁制は「仍執達如件」(よって執達くだんの如し」と書かれている。
いずれも義景からの命令として伝えているが、意味合いからすると浅井の禁制は間接的である。(執達:上意を受けて下に通達すること。下地:指図をすること。命令。)
 もうひとつ、和泉神社に奉納されているしている鰐口を調べていると、朝倉義景が奉納している。
自分の領地に鰐口を奉納するのは当然のことだが、他国に奉納することは通常あり得ない。

浅井久政の奉納した鰐口には
天文二一年(一五五二)十月浅井久政奉納
小谷表山田和泉大明神
奉掛
願主浅井左兵衛尉久政天文21年10月

朝倉義景の奉納した鰐口には
元亀二年(一五七一)五月朝倉義景奉納
江北表山田和泉大明神金口
国土安全,武運長久 敬白
于時元亀貳辛・未五吉祥日、願主越州義景
と書かれ、に他国の神社に奉納する鰐口に「国家安全・武運長久」等とは書くはずがない。まして、信長が小谷城を攻める2年前(小谷城攻めは元亀元年(1573))のことである。

もうひとつ、浅井と朝倉の関係を証明するのに、小谷城址から発掘された行火(ばんどこ)の中に笏谷石(しゃくだにいし)で作られたものがある。笏谷石は越前でしか採れない石であるにも関わらず、小谷城址から発見されている点についても注目している。

以上のことから、浅井氏と朝倉氏が密接な関係にあったと共に、その関係は同盟と云うよりも、従属の関係であったとみるのが妥当。

織田信長の「天下布武」的天下統一と朝倉氏的天下統一の相違
 後の15代将軍足利義秋が朝倉義景を頼っていること自体、朝倉氏が弱小大名ではないと言えるのではないか。
 越前若狭は武田氏の領地であるが、若狭美浜町には同様の3m程の土塁が残っている。
これらは、築城技術に長けた朝倉氏のものによると考えられるし、美濃の土岐氏も朝倉を頼っていることなどからも、朝倉氏の領土は越前一国だけではなく、近江の北部,越前若狭,美濃(土岐氏)を含めた中部の地方の求心的戦国大名ではなかったか。
 天下統一は織田信長だけの夢ではなく、朝倉義景の夢でもあったはず。しかし、その方法が違っていた。織田信長は暴力による天下布武であるが、朝倉義景は戦国大名の連合体制による天下統一であったと考えられる。
そうした信長についていけなかった荒木村重や明智光秀等のインテリ層が謀反を起こした。
 姉川の戦いの前に、浅井氏は近江と美濃の国境に境目の城を築城している。
朝倉氏は織田信長を国境でくい止めようと、坂田郡山東町の長比城及び上平寺城を築城している。上平寺城は京極氏の居城であったが、今日残っている遺構はこの時代のものである。いずれの城郭にも高さ3mの土塁が残っているが、浅井氏にはこういった遺構はなく、朝倉氏の築城によるものと考えられる。
しかし、これらの守将である、堀,樋口(鎌刃城城主)は調略によって信長に帰順し、境目の城はその機能を果たすことなく落ちた。
 姉川の戦いに朝倉義景は出陣していなかったが、これは朝倉氏が守護大名であり、尾張の一豪族との戦いに義景が出向くような戦いではないと判断していたためであろうと考えられる。
 このように当時の守護大名と守護代大名、それ以外の大名(豪族)とでは、その格式に歴然とした差があった。
浅井長政は織田信長の妹・お市を娶っているが、もう一人妻女がいた。それは六角氏の家臣平井氏の娘である。これは浅井と織田は同列の地方豪族であるが、六角氏は鎌倉時代から近江守護職を努める由緒ある家柄であり、この六角氏とは直接婚姻は結べず、家臣の平井氏と同列ということを表している。
 そういった理由もあって朝倉義景は姉川には出陣してこなかったと考えられる。現在で云う危機感里が出来ていなかったと云うことである。

姉川の戦いの勝敗は?
 浅井・朝倉連合軍は姉川の決戦で敗れるが、今日云われているような大敗ではなかったのではないか。なぜならば、信長が姉川の戦いから浅井・朝倉を滅ぼすまで3年を要している。大敗を喫したのなら3年間も抗戦し続けられるはずがない。
 浅井・朝倉連合軍が大敗したと伝えられているのは、織田軍には徳川家康が参陣しており、神君家康公が戦った戦として徳川時代に誇張されたのではないか。

織田信長の城攻め
 織田信長が小谷城を攻めた際には、「信長公記」元亀3年8月8日を引用、
「又丈夫なる御普請、申尽し難き次第なり。虎ごせ山横山迄間三里なり。程遠く候間、其繋ぎとして八相山・宮部郷両所に御要害仰付けらる。宮部村には宮部善詳坊入れをかせられ、八相山には御番手の人数仰付けらる。虎後前山より宮部迄路次一段あしく候。武者の出入りのため、道のひろさ三間々中に高々とつかせられ、其のへり敵の方に高さ一丈に五十町の間築地を築かせ、水を関いれ、往還たやすきように仰付けらる。

 昭和20年頃の地図(?)から宮部と八相山間に条里とは違って斜めの道が確認されるが、これが「信長公記」に記されている往還(堤防)ではなかったかと解説。
 
 信長は小谷城攻めに際しては、山本山城虎御前山城のように付城を築き、また鹿垣(ししがき)を築き、城攻めを行ったと解説。
佐和山城攻めにおいては4カ所の付城跡が確認できるし、丹波の三木城攻めなどに至っては20カ所近くの付城跡が認められる。こうした信長の攻城の戦法が、家臣たちに大きな影響を与えている。

浅井軍の防御エリア
 小谷城から北、及び近江・越前国境付近には城は1城もなく、朝倉と浅井の関係がここでも証明される。幾ら同盟を結んでいても国境に城が無いというのは考えられなく、やはり、浅井は朝倉に従属していたことが裏付けられる。従って、姉川合戦及び小谷城攻めにおいては浅井軍の防御エリアは小谷城以南ということになる。

文責:箕浦 2001.2.5



近江の城郭