湖北の戦国史鎌刃城と小谷城
開催日時:2001年11月11日(日)午後10時〜12時
講演者  : 丸山竜平氏
 名古屋女子大学教授

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 今日は、北近江の城を中心に考古学的立場から、私は戦国時代前期の話をさせて頂きたいと考えています。戦国時代の後期については、後日小和田先生がお話しされると思います。
では、いつ頃から戦国時代かというと、覚えやすい年代から遡ってみると、1600年は関ヶ原の合戦ですが、これは戦国時代の終わりといえます。信長が近江進行をするのが元亀元年で1570年、1560年は桶狭間の戦い、1543年が鉄砲伝来、1467年が応仁の乱ですが、今日は鉄砲伝来から浅井亮政の没年までの間に絞ってお話ししたいと思います。

 浅井氏はどうして戦国大名にになったのか。
それだけのものが備わっていたのだろうが、書かれたものがない。
亮政が小谷城を築いたとしても、それ以前は何処に住んでいたのか、亮政の人物像、歴史的事実あるいは考古学的所見から考えてみたい。
 近江の地籍図には、湖北町の丁野(ようの)の浅井氏の屋敷があるが、村の真ん中にお堂とお宮さんがあり、地元の人が「浅井氏発祥の地」の標識を建てている。亮政はこの丁野で生まれた。
明治時代の地籍図には丁野の村の中に土塁と堀をを巡らせた屋敷の痕跡が認められる。村の真ん中にお寺とお宮さんがあって、それを取り囲むように土塁と堀を巡らせた館があったわけで、本来湖北の土豪や地侍、被官等、力のある人々は村の中には館を造っていない。多くは村の外に造っている。これは両者の関係を示している。
 丁野の場合はこれらが一つになってかたまっている。しかも、お寺やお宮さんが中心にあり、浅井氏との関係は非常に良好で近しいものだったことが分かる。
 字養老屋敷という地名もある。なぜ養老屋敷というかというと、いろんな説が云われているが「ようろう」が訛って丁野になったのではないか。

 村の中の館のありようを見た場合、堀の水が用水(もちの井)が館の周囲を回っている。この用水は灌漑用水で、浅井氏の最大の関心事は用水(もちの井)を管理することでなかったか。
この用水の取水口は木之本の古橋にあり、木之本から高時川〜丁野〜河毛を経て、虎姫町に流れており、非常に重要だったと考えられる。
この用水は山手から流れてくるいくつもの川と交差しているが、川の下をくぐらせ、あるいは上を通す等高度な土木技術を使っている。浅井氏が灌漑に関して高度な技術を持って管理していたことが分かるし、これが浅井氏の基盤となっていたのではないか。

 小谷城を見てみると、小谷城には他の城とは違う点がある。朽木の石田先生が小谷城の曲輪一つひとつに名札を付けて数えたら1100カ所あると云われている。
なぜ、そんなに多いのか。これは戦の時に丁野の村人が避難する施設として曲輪を使っていたのではないかと考えられる。このように浅井亮政は農民と近いところに足場をおいていたのではないか。
 また、小谷城には庭園がない。京極氏は上平寺の麓に庭園をもった館を構えているし、一乗谷の朝倉氏や朽木氏も見事な庭園をもっている。庭園を持たないのは亮政の考え方、スタンスではなかったか。

 亮政の時代に京極氏は弱体化し上坂氏の動きに関連して没落していく。本来なら下克上で政権を奪った者は主筋を追放するのが常識であるが、亮政は京極氏を大事にしている。京極氏は伊吹の山麓に上平寺に館を持っているが、これも浅井氏の配慮ではないか。
浅井氏が小谷に城を造って戦国大名となるきっかけは、上坂氏が京極氏に取って代わるのに反旗を翻したときに磯野氏を打ち破ったことにある。
破れた磯野氏を "から川" に移すことで許している。今も"から川”に磯野氏の館跡がある。本来なら反抗したものをバッサリと処分するところであるが、浅井氏は居館を変えるだけで許している。
このように浅井氏亮政は京極家の被官でありながら、農業に力点を置いた人物であることが分かる。

 浅井氏の祖先は京都三条公綱(きみつな)が丁野に移り住んだことに始まり、その落胤であると云われている。この浅井氏が台頭してくるのは亮政の人望もあり、そんなところから湖北の山城を考えてみる必要がある。


 湖北の城というと、上平寺城鎌刃城がある。これらは小谷城の支城と考えがちだが、三つの城にはそれぞれ同時に存在して、それぞれがその役割を果たしている。
 長浜平野の北に小谷城があるが、その麓には市があった。鎌刃城の北には当時の日本でも屈指の市がある箕浦の荘がある。この小谷の市から箕浦の荘の市まで「古北国街道」とも云うべき道があったと考えられるし、小谷からは北国脇往還道から上平寺に通じている。この上平寺には城下町があったし、この三つ市及び城下町の関係はそれぞれが重要な機能を果たしている。
 上平寺の南の山から稜線を通って、多賀の山奥に高取城(男鬼城)という大きな山城が発見されている。高取は湖東に行くための道の押さえとしての城ではなかったか。市だけではなく同時に、こういった城が存在する。

 千田氏の虎口の分類を資料(千田嘉博著 織豊系城郭の形成)の中に掲載しておいた、この分類は非常に有用である。
しかし、第1類型(折れなし、空間なし)はあり得ない。つまりこうした時期の虎口は分からないように造ってあって、実際にはこうした虎口はあり得ない。
第2類型(折れなし、1空間)は亮政以後である。

 また、古い城には土塁が全くない。京極道誉の城には土塁はないが石垣はある。研究者は全く新しい城だといっているが、そうではない。
土塁が出始めるのが磯野氏の城辺りであり、わずか土塁が認められる。
その後、山を削って土塁を造っているが、四方には廻っていない状態から、四方に巡らされるように変わってくる。
 長谷川銀蔵氏からは、土塁は蛇が卵を飲み込んだような城(土塁がでこぼこしている状態)は古いものだと教えてもらった。
 千田氏の類型によっても年代が分かる。そうした分類からすると鎌刃城の築城年代は古いと判断される。

 石垣については、京極道誉の勝楽寺城、あるいは小谷城、鎌刃城は石垣がある。当初は古いものであることを信じてもらえなかったが、最近では信じてもらえそうである。

 小谷城大広間背後の石垣は算木積みがされている。昔は算木積みはは江戸時代のものであるという考え方がされていた。
小谷城の算木積みは亮政の時代のものである。
石垣というと信長・秀吉時代のものと考えられがちだが、近江においてこの考え方は当てはまらない。高島郡長法寺にも石垣があり、算木積みがされている。これは寺のものではなく、城を築いたときのものである。

 鎌刃城と小谷城は似ている点がある。それは山に城を建て、谷に屋敷を構えている点である。小谷城には清水谷があり、ここには家臣の屋敷が建てられている。鎌刃城にも谷がある。これらを惣構と考えられる。
鎌刃城の谷は番場の集落が切れるところに屋敷の跡があり、堀や御殿所などの地名も残っている。これらは谷に造られている。 時代的背景から堀氏、京極氏及び浅井氏は湖北でひとつの連合体制を築いていたと考えられる。

 最後に鎌刃城のことについて話をしてみたい。
鎌刃城の特徴は小谷城と同じような門構えをしている。主曲輪には御殿もあったが、果たして堀氏がこの城を造るのは無理だろうか。
小和田先生は「鎌刃城は一国人領主の造れる城ではない」、それはその城の規模が大きすぎるため、信長の意向によって整備されたとの見解を示されている。
鎌刃城は一般的には堀・樋口氏の拠点と考えられている。城は一度造ると、増築はあるが、そっくり改造することはほとんどない。従って、堀。樋口氏当時の遺構が残っているのではないか。
堀氏の家臣の中にも4間×13間程度の建物を建てていることを考慮すると堀氏が鎌刃城を造ったという可能性もある。
 その背景として、箕浦の荘がある。この箕浦は伊勢、尾張、美濃などの交通の要衝として、いろんな物資が通って行くところであるが、ここを堀氏が掌握していたことがあげられる。こうした経済力をバックに鎌刃城を造ったと考えられなくはない。

文責:箕浦  2001,11,12




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