大阪府警察本部棟新築工事に伴う大阪城跡発掘調査現地説明会概要
2003年12月13日(土)
大阪城大手門前 大阪府警本部敷地内

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 現地説明会概要


 現在までに分かっていることをご説明します。
現在の大阪城というのは秀吉のお城ではありません。ご存知の方もおられると思いますが、現在の大阪城は家康が造り直したお城です。ご存知の天守閣は昭和6年(1931)に秀吉のお城を模して作られた鉄筋コンクリートのお城という不思議な状況になっています。

大阪市では昭和34年(1959)に大阪城総合学術調査というのをやっており、本丸でボーリング調査を行いました。掘ってみたら古い石垣が出てきました。当時、現大阪城の石垣は豊臣秀吉の造ったものだと信じられておりましたので、出てきた石垣は何時の時代のものだろうと論議を呼びました。可能性として石山本願寺の石垣が考えられましたが、その後いろいろな調査をしていくうちに、石垣に打たれている大名の刻印が、いずれも家康配下の大名の刻印で、秀吉の配下の大名の刻印が一切無いということが分かった。
そういったことから、現在の大阪城は徳川家康が造ったお城で、現在の大阪城の下層に秀吉時代の大阪城が眠っていることが分かった。

 今回の発掘で出てきた堀は、まさに家康によって埋められた秀吉の遺構である。秀吉のお城は家康が崩したり、埋めたりしてしまっていて、ほとんど分からなくなっている。ところが、幸いなことに僊台武鑑(せんだいぶかん)と云ったような絵図が残されており、秀吉の城の縄張りがどのようなものであったかと云うことを知ることが出来る。
 大阪城には本丸を囲む一重の堀、これは現在と一緒。二の丸の所にあり大手橋が掛かっている堀、これが二重目の堀です。文禄3年に惣構の城になるとされており、この僊台武鑑で云うと四重目の堀です。この段階で大阪城は世界で一番大きい城となった。 東側は現在の環状線近くの猫間川、北側は大川、西側は東横堀川、南側はほとんど無くなっていますが、"からぼり商店街"という地名が残っている所まで、非常に広い範囲にわたり三国無双の城と云われた。

 今回の発掘で出てきたのは二の丸と惣構の間の三の丸の堀で、これは慶長3年に造られたという記述のあるもので、堀がコの字状に大手口を囲むようになっており、僊台武鑑の絵図の大手口外側に描かれている堀が、まさにこの堀であろうと分かってきました。今までの見解では三の丸は谷町筋を延ばした所だという見解でしたが、これで三の丸のことが分かったということではなく、三の丸を考える重要なことが分かったと云うことになります。
 家康には黒幕の金地院崇伝(こんちいんすうでん)というお坊さんがいて、その人が書いた日記がある。家康は大阪冬の陣の後に堀を全部埋めてしまえと云ったことが載っており。それも、三歳児が歩けるよう平らにしろと云っています。
実際掘ってみると真っ平らでしたし、皆さんが立っておられる所は、まだ発掘調査しておりませんが、堀の上でここも三歳児が歩けるぐらい平らになっています。
後方の駐車場になっているところも発掘調査をしましたが、その時にも堀が出ております。しかしこの堀は南北方向にしか延びておりませんで、一体何の堀か全く分かりませんでした。今回その北にあたる所から堀が出てきたわけですが、ここでは堀が南に延びて東に折れていることが分かり、まさしく大手口を守るように掘られていた堀だと云うことが分かりました。
この堀を埋めたのは家康で、なぜ家康と分かるのかと云いますと、資料にも載っていますが、ひとつのお札が出てきました。土器で年代などを決めたりすると。なんでそんなことが分かるんや〜と云われますが、これは決定的で、そのお札には慶長13年(1608)と書いています。従って絶対に慶長13年より以前に堀が埋まることはありません。
 ということで、慶長13年(1608)以降に埋まる原因というのは、1615年の大阪冬の陣が終わった後すぐに埋めたという記録が残っておりますので。これ以外にはあり得ないと云うことになり、ここの堀は1614年の冬から、1615年の1月の間に埋めたと云うことが分かります。
普通の遺構では"年"が分かっても、"月"まで分かることはほとんどないのですが、今回の調査は"月"までわかるという画期的な成果です。埋めた時期が分かると云うことは、埋められた直前の状況が分かるということになります。現地を見て頂ければ分かると思いますが、堀が非常に綺麗な状況で出てきています。

 なぜ土で出来た堀が綺麗な状態で埋まるかと云うと、冬の陣に備えて豊臣方が整備・強化していることと、それを1614年12月23日から(22日に和議がなされている)家康が埋め始めているためです。
 今回発掘された遺構は、大阪冬の陣の直前の景観そのままです。そうした当時のものが出てくると云うことで当時の緊迫した状況が非常に良く判りますし、当時の状況が真空パックされたように残っています。


   2003年12月14日 文責:箕浦

発掘調査地点の全貌
大阪府警本部南側、大阪歴史博物館10Fから撮影


堀障子と云われる遺構の現れた箇所の全容


堀底からの深さ
説明者の立っているところが堀底で、見学者の位置からは10mほど。
見学者の立っている所が、当時の地表面だったとの説明があった。



【説明内容】
堀障子部分は粘土層で造られており、この辺りの地山の地層を利用して造られている。
堀障子の深さは様々で、説明者が立っているところで深さ50cm、深いところで1m。
当時も水が溜められていたようで、調査時真っ黒なヘドロが溜まっていた。
水が深いと、泳いで渡ることが出来るため、30〜50cm程度の水を溜めていたと考えられる。
しかし、堀底にはこうした堀があるため、歩いて渡ることは出来なかったのではないか。



粘土層のため、担当者は発掘中に何度も滑ったとか。


堀の屈曲部から東側
堀底の堀障子部分には規則性は認められない。
短期間で造られたためか、それとも作為的なものか!



堀の屈曲部から北側




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