琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
開催日時:2001年9月23日(日)
講師:佐野静代(滋賀大学教育学部環境保証実習センター助教授)

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 歴史地理学は歴史上の出来事(トッピック)の起こった場所に注目し、舞台となったなった場所から歴史を考えていくものですが、今日はこうした視点から、宿題を頂いている「信長時代の近江の城」を考えて、なぜ、この地域に城が造られたか、信長の城作りの意図を考えてみたいと思います。
地図上で見ると、信長の築城した4つの城、長浜城大溝城安土城坂本城すべて湖岸に造られ、それも等距離にあるり、ネットワーク結ばれています。
なぜ、この場所を選んで建てられたかが問題になりますが、一般的な説明として、信長は湖上水運の掌握・支配をねらって築城されたとされている。
しかし、一般的な説明だけではもの足らない。
単に湖岸とするだけでなく、4つの城の立地条件、当時の地形を含めて詳細に分析すると、湖岸と云うだけではなくきわめて特殊な立地条件が浮かび上がってきた。それは内湖という小さな湖の存在である。

●城の立地
信長の造った4つの城にはほとんど内湖がある。ただし、坂本城はについては例外であり、後述する。
安土城は、現在では干拓されているが大中の湖、小中の湖に囲まれた水城であり、復元図を見ると大溝城は乙女が池という内湖に囲まれ、本丸は乙女が池に面していた。
長浜城の周辺には現在では内湖はないが、明治初期の手書きの絵図には内湖が描かれている。
 城の本丸の部分が内湖に面しているという事に注目してください。城の中では本丸が最も重要な場所である。
この本丸が内湖に面している城では内湖を水堀として利用していたと云うのが、今までの説明だったが本当に本当に天然の要害だったのだろうかか。
船を利用すれば簡単に内湖から本丸に行くことができる。にもかかわらず水城が造られたのには条件があった。それは水軍を完全に掌握してから初めて造ることのできる城であった。
信長の城を考える上で水軍が必ず出てくる。

●内湖の地形と水軍
 今日は「内湖の地形」と「水軍」というキーワードから、信長方の城について考えてみたい。
では、なぜ内湖のある地形を選んだのかということですが、内湖は琵琶湖と繋がっているため船溜まりとして利用することができるということがあげられます。
また、内湖周辺に住んでいる人は漁業,運送業等に従事する人でが、いざ戦いとなると湖上の軍隊つまり水軍に変貌する人たちであり、この二つを利用するために内湖という地形を選んだと考えられます。
 ちなみに、琵琶湖に周辺における有名な港はほとんど内湖を利用したものであり、経済的にも軍事的にも重要な施設であった。

●水軍と信長の関係
 信長は近江を制圧するために水軍を使ったかどうかと聞かれることが度々あるが、信長は浅井・朝倉郡を撃退するのに水軍をよく利用しています。
では、どの辺りの水軍を利用していたかというと、堅田,高島郡打下および沖の島の水軍に対してたびたび出陣を要請しています。この高島郡打下には堅田に匹敵するぐらいの水軍が存在したようです。それと坂本城にあった明智光秀は水軍の指揮官としてよく登場しており、坂本の水軍も利用したようです。
この4カ所の港を地図上で確認してみると、信長の築城した城の位置と重なっています。
打下村には大溝城があり打下村を取り込んだ形で城が造られていますし、沖の島は安土城が面していた大中湖の正面に位置しています。
また、坂本には内湖はありませんが、ここは比叡山の焼き討ち後に明智光秀が編成した水軍がいたようで、権力によって新たに水軍が編成されたパターンといえます。
これら水軍がいた地に長浜城,大溝城,安土城および坂本城が造られた理由として内湖の重要性があげられます。
 信長琵琶湖周辺に城を築いたのには、内湖周辺に成立していた村の軍事力および経済力を取り込んだ都市を造るのが最大の目的であったと考えられます。

●信長型城郭の都市プラン
 長浜の場合、港がどのように取り込まれているかを見てみると、軍事面と商用面と別々の形で取り込まれているのがわかります。本丸に面した北寄りに城主直轄の港、経済に重点を置いた港は町人地(現在の船町)に造られています。
 こうした城下町の水堀は船入りとして使われており、防御だけでなく、柔軟な使い方がされています。こうした使い方は信長が造った城下町で芽生えてきたのではないかと思います。
 長浜城だけではなく、安土城の城下町でも水堀が船入りとして兼用されていますし、大津城膳所城も同じよう水堀が使われています。特に大津城は水堀が船着き場として江戸時代まで利用されています。

●まとめ
 信長が湖岸に4つの城を築いたのは、内湖の持つ需要性、漁民集落の経済力と軍事力に着目し、都市建設のプランとして、内部に港のある城下町を造ろうとした結果であるといえます。

文責:箕浦 2001年11月11日 




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