城は語る近江の戦国史
開催日時:2001年9月23日(日)
講師:講師:中井均氏(米原町教育委員会)

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 滋賀県には1300の城がある。この分布はある地域・甲賀,長浜平野に集中している。
県の中心である琵琶湖周辺にはほとんど城は造られていない。これは大変重要な意味を持っていると思っている。
佐野さんのお話の中に、内湖に係わって、織田・豊臣段階の城が内湖に近いとうい面白い話を聞かせて頂いた。
もっと、マクロな視野でみると、琵琶湖が城に使われだしたのも織田・豊臣段階に集中している。
例外的には、戦国期の土の城が琵琶湖沿岸に造られた城もあるが、しかし内湖なり坂本城のように琵琶湖に突出するタイプの城は織田・豊臣段階に集中して造られているのは特徴的なことである。
それをなし得たものは何か、ということを城郭史の立場から話をさせて頂きます。
 なぜ、織田・豊臣段階で戦国期に造られた山を要害にした城から、琵琶湖を要害にしている城に置き換わったのか、という問題があるのではないか。

 城というと、彦根城や姫路城などのように水堀、石垣、中心には天守閣が建てられているのが常識的であるが、1300の城の中で1290ほどは土の城、ほぼ99%は土で出来た城であった。
それが、天正4年に信長によって建てられた安土城によって、土の城から石の城に大きく変わった。ここで、日本の城は土の城から石の城に大きく変化した。
更に、その上にはそれまで無かった作事(建物)、戦国時代の城は柵を巡らし、堀建柱の簡単な建物しかなかったが、安土城以降の日本の城は、礎石・建物を使って瓦を葺く漆喰の重層の建物が出現する。
近世城郭の出現というのは、まさに安土城が"こうし"として位置づけできる。
ここに、日本の城は戦だけに使う城から、恒常的な住まいも兼ねた、居住と防御が一体化した城に変化していく。戦国時代は麓に館があり、戦の時には背後の山城(詰城)に立て籠もる、二元的な構造になっていた。
ところが、安土城の場合は天守閣の横に本丸御殿が建てられたりして、戦国時代の二元的な構造から一元的な構造に変化する。
城は、非恒常的な戦だけの城から、安土城によって恒常的な施設になった。

更にに重要なのは、単に石垣を築いて防御だけの城から、見せるという視覚的効果が働いている。それまでの城は戦うだけのものであったのが、安土城からは見せるという、権力の象徴としての城というのが大きく作用している。その最も特徴的なものが金箔瓦で、安土城ではよく金箔瓦が出土している。

 石垣は防御的には有効な施設、それに重層な建物、これも軍事的には有効である。では金箔瓦はどのように軍事的に有効だったのか・・・・。これは信長の政治的な権力のモニュメントとして見せるということで葺かれた瓦である。
以後、秀吉や秀吉の一門や配下の城には金箔瓦が必ず使われていく。
戦うという戦国時代の土城から、見せるという近世の城につながっていく、非常に大きな活気が信長の安土城には認められる。
もうひとつ面白いのは、レジュメの「琵琶湖を巡る織豊期の城郭配置図」に記載している長浜城、大溝城、坂本城、安土城という織田段階の城の使われ方だが、長浜城大溝城坂本城は平城である。一方安土城は平山城であるが、比高が約90mもあり、甲賀郡の山城よりも高い。これは山城といっても良い。

 信長が自分の意志で造っていった城を見ていくと、小牧城岐阜城、安土城と山城に依存している。信長の居城は決して山を下りなかった。
琵琶湖を巡る4つの城で信長あるいは配下の城で、山の上にあるのは安土城だけ。
配下には平地に城を造らせたが。自分は最後まで山城を捨てなかった。

 琵琶湖をめぐる4つに城に対して、秀吉時代になると天正13年に佐和山城水口岡山城大津城近江八幡城(八幡山城)の4つが造られる。 城の歴史を教科書的に考えると、山城から平山城、平山城からから平城と時代が新しくなれば、低いところにいく。と考えられていましたが、これをみると、佐和山城や、水口岡山城、近江八幡城は山城は純然たる山城である。
 信長が元亀2年から天正6年に造らせた配下の城はすべて湖の面しているにも関わらず、秀吉が近江で配下に造らせた城というのは大津城(港を重視した城)を除くとほとんどが山城に依存している、時代錯誤的な状況が読みとれる。
 湖を重視した信長の城郭配置と、山城を重視した秀吉の城郭配置の違いが見事に出る地域は全国的にもないのではないか。
これは秀吉が天正13年に配下に城を造らせた時代というのは、関東に後北条氏がいたわけで、天正11年に秀吉は大阪に居城を移して、近江を後北条戦の前線基地として意識しているのが読みとれるのではないか。臨戦態勢における城が最大の効力を発揮するのは山城であり、天正13年段階にはまた山に城が築かれた。
 信長段階の湖の城と、秀吉段階の山の城というのは、如何に近江が使われていたのかという違いをはっきりと見ることができる。


 面白い状況を指摘できる。それはレジュメに「近江における近世初頭の城郭の移動状況史」をつくっておいた。

 たとえば、長浜城の例でいくと、天正元年に小谷城の浅井を滅ぼすした織田信長は、翌日に湖北3郡支配を秀吉に任せる。そして秀吉は長浜城を築城すると云われている。ここで面白い状況を指摘できる。
一般的に湖北3郡支配を任された秀吉はこの時点で長浜に居城を移したと考えられがちであるが、この時点ですぐに長浜城に入ったわけではなくい。当たり前の話であるが、長浜城がすぐに完成するわけではなく、湖北3郡を任された秀吉は最初に小谷城に入り、長浜城の築城にかかる。
 「信長公記」によると小谷城が落城した翌年、信長が北陸へ行くときに、「筑前が居城の小谷に宿泊する」と書かれている。天正2年段階でも羽柴秀吉が小谷城にいたことが分かる。おそらく長浜城が完成し、秀吉が長浜へ移るのは天正3年ぐらいだろうと考えられる。

更に坂本城の事例で、佐野先生のレジュメの中に、元亀2年に高島郡打下の話の中で、明智が新たに水軍を編成したという話がありましたが、ここでは「宇佐山の明智十兵衛光秀」とあります。この時点では坂本城はまだ築かれていない。
多聞院日記に詳細に書かれている
 「多聞院日記」にこの城の造られ方が詳細に書かれている。何のために宇佐山城を造ったかというと、比叡山を焼き討ちするに際して森三左右衛門可成に命じて造らせた。「これまでの古い道を閉鎖して京都へ抜ける新しい道を造って、その監視所として造っている」と書かれている。
ここで面白いのは、滋賀県教育委員会が数十年前に調査した時には、宇佐山城では瓦は出土していないことである。
最初に信長が造った安土城以後の織豊城郭の特徴は、石垣、瓦葺きの建物、礎石のある重層建物が織豊系城郭の重要なキーを握っているわけですが、この宇佐山城には石垣はありますが、瓦が出ていない。さらに城下町を造るような場所ではない。きわめて軍事的な城である。つまり織田段階にあっても軍事的な城と拠点的な城を建て方を使い分けていることである。
 元亀2年段階では、まだ光秀は志賀郡を支配するための本拠地を造っていない。軍事的な宇佐山にいた。それが比叡山焼き討ちの後、志賀郡が光秀の支配するところとなると、宇佐山から坂本に城を移したことが分かる。

 光秀の後、大津城が天正14年からつくられる。坂本城はルイスフロイスの日本史によると、安土城に継いですばらしい城であったと書かれている。
それがたった十数年で廃城になり、大津に城が築かれる。更に慶長5年、関ヶ原の合戦後、新たに行われた大名の転封・移封に伴い、大津城が廃城となって膳所に城が築かれる。
志賀郡だけの状況を見るとわずか数十年の間に、宇佐山城、坂本城、大津城そして膳所城と4回も本拠が移動するという状況が読みとれる。
 また、大溝城は天正元年に磯野員昌がが新庄城(新旭町)に入る。この城は発掘調査をしているが石垣のない、瓦出土しない土の城である。
その後、天正6年、織田信澄が高島郡支配を任されると、新庄城が廃城となって大溝に城が移される。

 水口岡山城、天正13年に造られた城というのは現在の水口城ではなく、水口の町の背後にある岡山という山の上にある城で石垣作りの城である。この城もわずか10数年で廃城、現在の水口城に移されている。
 このように織豊系大名が心血を注いで、石垣、瓦、天守を構えた城が、わずか数十年で移動している。
 それまでの戦国大名を例にとると、毛利は安芸の郡山に城、周防の大内氏は山口に、武田信玄は伊那に入り、更に遠江に進出していくが、最後に帰る城は躑躅が崎の館である。
本拠の移動がこれだけ頻繁に行われるのも、織田・豊臣段階の大きな特徴ではないか。
 また、安土城そのものが近江八幡に移ってしまっている。天正10年に焼け落ちてしまうが、秀吉は信長の孫の秀信を入れるために安土城の修理を命じており、少なくとも3年間は安土城は存続していたが、天正13年に近江八幡移ってしまう。
 安土を含めた湖の城郭すべてが、その後移動しているのが分かっていただけるのではないか。

最後に、私は考古学を専攻しましたので、考古学的に城の見方ができないのか、ということで、十数年前から研究仲間「織豊城郭研究会」たちと、考古学的に城を研究していこうとしております。その一つの大きな手がかりが「瓦」です。
瓦の出る城は、安土城以降の城でしか認められない。石垣については、石垣はあってもその石垣の表面より背面の問題で、ぐり石(裏込め石)が入っているかどうかというところが問題となる。巨石を使って高石垣、4〜5mの高さの石垣を造ろうとすると、ぐり石が入っていないと排水がしっかり出来ないので崩れてしまう。
あちこちで見られる石垣のうち、人頭大の大きさの石が3〜4段の積んであるのは、「土止め」の石積みである。
石垣と石積みを見分ける手だては、私でも積めるのが石積みで、私が積めないのが石垣。つまり専門の技術者、近江においては穴太衆、馬淵氏のような専門の石工集団がある一定の技術を持って積むものが石垣。
 石垣の中にも安土に先行する城の中で、例外がひとつだけある。それは近江守護職である六角氏の居城である観音寺城である。ここには技術が存在している。
ところが観音寺城では安土城にも匹敵するような石垣を積みながら、瓦は出土していない。
観音寺城の石垣の上には板葺き、御殿があったとするならば、檜皮葺き、こけら葺きのような建物しかなかった。
礎石は使われているので、しっかりとした建物が建てられていた。ただし瓦は使われていない。従って、石垣と瓦が出てくるのは安土城以降となる。
 安土の瓦については、「信長公記」の中には唐人に命じて奈良氏(?)に焼かせると書かれている。
フロイスは青い瓦と書いている。しっかりとした瓦が安土城では使われている。奈良氏に焼かせるというのは当時寺社建築で瓦を焼ける技術を持っているのは奈良の瓦工人を動員している。
この安土城と同じような瓦。瓦をどのように造るかというと、版木に粘土を押し当てて瓦の文様を造って焼く。その同じ版で焼いたであろうと云われる瓦が、大溝城で出ている。安土城の築城が天正4年で、大溝城の築城が天正6年、同じ版で瓦を焼いている。これは非常に重要なことである。おそらく瓦工人を掌握していた信長が信澄が大溝城を築城する際に瓦工人、あるいは版木を貸し与えた可能性が高いと云える。
更に版は違うが、安土城で拭かれた瓦と同じ文様のものが長浜城や水口岡山城からも出土している。従って安土城の瓦を焼いた工人と近い工人が長浜城や水口岡山城の築城に関与していたことが分かる。
 内湖に形成されたという共通点と共に、瓦の同版関係や同紋関係からいくと、家臣団の長浜城や大溝城、坂本城といった築城の権利のようなもの、言い換えると誰がそれを築いたかというと、これは信長がかなり関与していたのではないかと考えられる。

 近江では1300の城が数えられているし、日本全国では約3万から4万の城跡が確認されている。私自身は弥生時代、古墳時代という呼び方があるであれば、中世の日本の呼び方というのは室町時代とか戦国時代とかという呼び名ではなく、「大築城時代」と呼んでも良いぐらい、どの村々にも城が造られた時代、誰がその築城を許したのか?
地侍、国人、戦国大名、誰でも自由に造れる時代。ところが瓦の関係や立地条件から近江の城を見ていくと、これらの城は秀吉が長浜城を築いたわけだが、そこに築城を指令したのは、信長であった可能性が高い。
新庄城から大溝城になぜ移ったのか、地理的条件と共に、信長が大きく関与していたことが考えられる。
こうしたことが同紋の瓦や同版の瓦から分かる。

 最近、坂本城だけは元亀元年という安土城よりも古い時代に造られていて、こうしたネットワークとは違うのではないかということも指摘されている。
ただ、坂本城から出土した瓦を見ると、同じ元亀2年に修理をされた勝竜寺城(京都府長岡京市)と同版の瓦が出土している。勝竜寺城の城主・細川藤孝がこの城を築いた契機になるのは信長の命令による西岡の"いっしき支配"であり、信長が細川藤孝に命令した可能性が高い。安土築城以前であるが信長はすでに掌握していた瓦工人を勝竜寺城と坂本城を築城する際に使わせていたのではないか。
 このように城の形だけではなく、出てくるもの、つまりここでは瓦であるが、瓦を調べていくとそれぞれの城に非常に強い因果関係が認められる。

 高島郡史によると大溝城が廃城になった後、廃材を水口の築城に使ったことが書かれている。信用していなかったが、発掘調査して出てきた瓦が大溝城と同版の瓦であることが分かった。これから郡史にかかれていることが立証できる。打下にいた水軍が琵琶湖を横断し、野洲川を遡って水口に運んだことが考えられる。

 彦根城の天守の中に金箔が展示されている。なぜ彦根城に金箔瓦があるのか? 彦根城は寄せ集めの城で天秤櫓は長浜城から、天守は大津城から移築されたことが判明しており、おそらくこの金箔瓦は大津城のものが使われたと考えられる。
大津城になぜ金箔瓦があるかというと、近江八幡城(八幡山城)を廃城したときに、瓦を大津に持っていっている可能性がある。転々としながら瓦が使われているというのが、同版や同紋で分かってくる。

 本拠の移転でどんどん新しい城が造られていくと云いましたが、すべて新しい材料で造られるのではなく、元々あった城を解体して、使える材木や瓦はすべて持ち運んだ。つまりリサイクルしていた城である。
織豊期の城は戦国時代の土の城と、江戸時代の近世の城の狭間にあって、過度期の城であるというイメージが強かったが、瓦や石垣を調べていくと、実は日本の近世の城の活期となった、土の城から石の城に変化した、あるいは板葺きの城から瓦葺きの城に変化した。日本の城の一大活期であったことが分かるわけです。
更に近江の中ではこう云ったことが見事に分かり、日本の城郭史の中でも最も注目すべき地域であるといえる。

文責:箕浦 2001年11月11日 




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