中近世後期における湖上交通の変換
開催日時:2001年9月23日(日)
講師:鍛代敏雄(國學院大學・栃木短期大学助教授)

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 私は中世の後半(織田・豊臣時代)の流通・交通および宗教史についてテーマにしています。琵琶湖についても少し勉強していることもあって今日呼んで頂いたのではないかと思っています。
今日は、前座として交通論について話をさせていただきます。
交通論の課題は、人とか物が動く訳ですから、それらが如何に安全に移動・運搬するか、またこうしたシステムが如何に維持されているかが重要な問題ではないかと考えています。

 戦国時代は地域(地方)の時代であったと云えますが、やがて織田信長・豊臣秀吉が出てきて、国家的な政策を断行していきます。その中には交通,流通という問題もあったわけで、これは陸上だけでなく湖上においても同様であったと考えられます。今日はこの二つを課題として話をさせていただきます。
今日の話には、柱が3つあります。
1.庭(にわ、ばと読んでも良い)という縄張りの問題
2.堅田海賊衆を中心に関所の問題
3.信長,秀吉は如何に湖上交通を政策として変えていったのか
 この柱に沿って話をしていきます。

●点,線,面(領域)としての庭(縄張り)
1.点(狭い空間)
 一般論として庭(縄張り)の問題として、強い国家が地域社会まで支配権を及ぼしている時代と、そうでない時代がある。これはいつの時代でも同様である。
信長・秀吉が生まれる前の段階の国家において、交通の問題をどう理解をしたらよいのか。
そのことを縄張りというキーワードで考えてみたい。
 市場、村、および町等を点として考えてみる。例として関所があり、東北地方の伊達氏の使者が朝廷に使者を送る際に、日本海から海津を経由して行くときに近江の北の関所で関銭を払ったという文書が残っている。
また、坂田郡の**寺では、周辺の関所へ礼金を納めて交通の安全を保障してもらっていたという記述も文書に残されている。
 ここでは、庭というキーワードと、それに関わって、礼金を取る側と礼金を納める側がそれによって、交通や流通が保証されるという形が戦国時代にあったということを知っておいてください。

2.線
線とは道のことで、若狭から今津への街道や周山街道などをでは、通行する人から礼金を取っていたように、街道をほぼ独占している商人集団があった。
ほかの商人が街道を通るときには礼金を納めていた。礼金を支払うことで安全を保障てもらうシステムがあった。

3.面(領域的な縄張り)
 堅田海賊衆は面的な縄張りを持っていた。面とは湖上を縄張りとしているということで、堅田海賊衆が琵琶湖を通行する船から上乗(うわのり)といった通行税を取っていた。
瀬戸内海の海賊も同じようなシステムがあった。ここでも、礼金を納めることで交通の安全が保障された。
【堅田の海賊】
 海賊は海の武士といってもよく、海賊とは行為をすることで海賊と認知される。海賊を働く者の実体は海の武士で、上乗という一種の警護をすることで他の海賊から襲われないシステムができあがっていた。
上乗を納めた船は、"ヒラヒラ" を立てることで襲われないといった、地域のルールもあった。
中世の後半には瀬戸内にも海賊はいたし、ルイスフロイスの日記からも、堅田,沖の島に海賊がいたことがわかる。しかし、いつも海賊行為をしていると人が通らなくなり、道としての機能をしなくなるので、上乗というシステムを作っていた。

 戦国時代後期には琵琶湖に14ヶの浦が確認できる。堅田衆は琵琶湖の浦を支配したと云われており、礼金を徴収し交通の安全を保障していた。
また、当時の戦国大名の織田信長、浅井氏、六角氏や比叡山等の権力の及ばない琵琶湖で堅田を中心にネットワーク(ルール)を作っていた。

●ここで、今日の課題がでてきます。
それは「琵琶湖ネットワークが堅田衆によって形成されていた(地域の道)を、どのようにして国家の道に作り変えていったのか」ということです。

【天下人と湖上交通】
 ここでのキーワードは馳走(ちそう)。
この馳走とは「走り回って世話をする」と云う意味である。
当時の堅田衆は漁業権や関所税、交通税(上乗)等を徴収する権利をもっていた。信長はこの権利を保証する代わりに「馳走しなさい」と求め、浅井氏との戦いの中で軍船,早船,物資輸送,馬の輸送など、軍事的な負担を要求している。
この馳走が常時出されていると公事船(くじふね)といい、税として船の調達等が行われた。
 堅田だけでなく沖の島に海賊がいたのは、沖の島が湖上交通の重要な位置にあり、湖西と湖東の中継基地として機能していたためであり、ここには関所があった。

 信長は天正9年に本能寺で倒れるが、天正10年、11年になると、秀吉は信長の構想を次々に断行していく。
その一方で、信長が認めていた権利(上乗等)を秀吉は取り上げる。また、関所および座を廃止し、自由な交通、自由な商売ができるように堅田衆の権利を取り上げている。こうして秀吉は国税主義(地域に税金が止まることなく、国家に納められること)という考え方の基に、地域のルールを断ち切って、関所、座を撤廃していくことで、戦国時代のルールを国家のルールに変換していった。

【国税主義への転換】
 信長は堅田衆に"100艘の船を大津に用意しろ"と求めている。こうして大津を琵琶湖における集船の最大拠点にしていく。その後、秀吉の時代に大津は城下町,宿場町,港町として発展していくが、秀吉はここで海上交通などの権利を与えて税金を取っている。
こうして、信長、秀吉が大津の港作りを進めたことで、琵琶湖の交通も変わっていった。

 その他、秀吉は政権が確立した天正16年に瀬戸内海に海賊禁止令を出して(琵琶湖には出していないが)漁師,船頭等、船を操る者の名簿を作らせて、管理を進めている。
また、公定運賃制度を定めたのも秀吉である。もちろん公定運賃制度は戦国期にもあったが、国家が公認する値段を定めたものは秀吉が初めてであった。
そのほか問屋の蔵に一時預ける際の預かり賃(倉庫保管料)等も定めている。

●まとめ
 こうして海賊たちによる海上保障システム、あるいは関所などを含めた陸上において国家権力の及びにくい(境界的な場所)自立的な地域のルールを如何に国家のルール(道)に還元していくかということを実践したのが、天下人が行った交通・流通制度の構築であった。

文責:箕浦 2001年11月11日 




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