近江歴史回廊 戦国の道シンポジウム〜「よみがえる安土城−信長の夢」

開催日時:2002年9月28日(土)午後1時15分〜2時15分
講師    : 愛知産業大学学長 内藤昌氏


 信長は戦国乱世に決着をつけて安土・桃山時代の基礎を作ったが、元々熱田神宮の宮司を祖先に持つ信長は近江,越前に関心を持っていたのではなかったか。
 信長はいろんな小説の中で想像され "信長は悪魔" のように書かれている。私はそういった小説は精読しないし、不満に感じている。信長は宗教家としてセオリーを持ちながら安土・桃山の新しい時代作りを考えていたと思っている。
 同様に小説では、信長は戦争のために城作りをしていたように書かれているが、信長自身はこれからの世の中をどう変革するか、新しい夢を描いて、それを具現化したのが安土城であると考えている。

 現在我々が「城」に対して持っているイメージは戦国時代が作り出したもので、古代から城というのはゾーンを計画すること、環境計画をすることを云っていた。平城京や平安京等も城である。
城の設計原理、四神相応は中国の哲学であるが、要するに都市を造るにあたっては四神(東に青龍,南に朱雀,西に白虎,北に玄武)を配していた。ところが中世ではこうした城造りの思想は省みられず、戦争の道具として城が造られた。
 
 現在では太平洋側を表日本、日本海側を裏日本と云っているが、古代から中国等の先進文化は日本海から入ってきた。つまり、当時は裏日本から情報が入ってきていた。そうしてマクロの情報が集まったところが京であり、近江であった。
 ところが戦国時代において京は管理されていたため、近江が重要視される結果となった。その近江に信長は安土城を造ったが、経済的な意味からいうとマイナスである。新しいシンボル,宗教的な価値を求めて造ったと考えている。信長を安土城の中からシンボルとして見ていきたい。

安土城のスライドを見ながら説明

−スライド:總見寺−
 安土城は戦争のための城ではない、それは「總見寺」を造ったことでも分かる。總見寺は禅宗の寺だが、名前の「見」は宗教を意味している。つまり信長はこれからの宗教(真宗,禅宗等)を総括するために總見寺を造った。実現はしなかったが、キリスト教まで集めようと考えていた。つまり、總見寺は世界の宗教を總見する施設であった。

−スライド:安土城−
 安土城の天主は戦争のためではなく、世界の平和を考えて、そのシンボルとして築いた。
皆さんがご存じの天守閣は「天を守る」と書くが、これは江戸時代に考えられたもので、信長の天主はデウス(天の主)あるいは天主堂等のキリスト教からきている。つまり新しい宇宙観を信長は作った。
 安土山の上に天主,本丸,二の丸を造り、大手,大名屋敷、あるいは總見寺へとつながっている。
天主は平城京、平安京であり、安土城下に住む人たちがローソクを持って天主まで行けた。このことを考えても安土城が戦うための城として造られたはずがない。茶道の原形でもあった。
 安土・桃山から江戸期にかけてを近代とは云わず、近世と云っている。ヨーロッパには近世と云った表現はない。明治からヨーロッパの教育制度が導入され、安土・桃山時代を差別して位置づけたと考えられる。
近世は安土・桃山時代から始まる。ヨーロッパで云うところのルネッサンス時代と云える。

−スライド:石垣−
 石垣を積む技術は古代からあった、この技術を積極的に使ったのが信長である。穴太積みと呼ばれる石垣の積み方は穴太衆が編み出したものだが、土木学会で力学的な意味を評価することになり、穴太積みの断面の勾配を評価できることになった。

−スライド:天主台−
 天主台北側に瓦などが多く散乱していて、天主が北側に崩れていることが分かる。天主台は変形の八角形で、本丸から直接入る道があったことが発掘調査の結果で分かっている。
天主の礎石を見てみると、真ん中には礎石がない。戦前の発掘(昭和15年)の時に誰かが持っていってしまったと考えられていたが、そうではなく、そこから瓶が出てきた。その瓶の中になにが入っていたのか分からないが、戦前の発掘ではまた埋め戻された。それまでは誰も手をつけていなかった。

−スライド:本丸,本丸御殿の測量図−
 天主,本丸の測量図を見て、特に重要なのが京の清涼殿(天皇の住まい)とほぼ一致する遺跡が出てきた。(礎石の配置から清涼殿と同じ構造を持つ建物が建てられていたことが推定されている)
また、清涼殿から天主に直接行けることが分かってきた。天皇が廊下を通って天主に入れるということは大変なことである。同時に天皇が京を離れて安土に来ると云うことも普通では考えられないことで、信長は新しく天皇の役割というものを思考していたと考えられる。我々が考えている天皇の位置づけがはっきりしたのはこの時からである。
 
−スライド:天主指図−
 私は最初から安土城を研究しようとは思っていなかった。
城の研究の中で一番問題と考えているのは、日本は近世,近代を差別したことである。近代が主であって近代から現代となる。
 安土桃山を評価することで、現在の大学制度が作られた。私は近世の歴史を先生から教えられたことはなく、時代遅れの建築物の研究をする必要はない、と云われてきた。
 昔から建築のノウハウについては「秘伝書」といった形で残されてきており、こうした秘伝書から建築学を体系化しようと全国を廻った。
秘伝書の中に江戸時代まで大切にされた流派が二つある。ひとつは四天王寺流、もうひとつは四天王寺流以上に中世の禅宗や中国の設計技術を取り入れた京都の建仁寺流である。
その建仁寺流の中にも天主指図が安土城のものであるということは書かれていない。
国会図書館の地下室に7年も放っておかれた「天主指図」があった。最初はこの天主指図が安土城のものであるとは思わなかった。
きど先生,ふじおか先生(固有名詞のため間違いてはと思い、あえてひらがなで表記します)に、この天主指図を見せたところ、全く話をされず、黙って見ておられて、「お前この資料は大切なものだから、5年間は黙って安土城を実測してこい」と云われた。
先生は昭和15年に行われた安土城の発掘調査結果をご存じだったが、私はその当時発掘調査のことは知らなかった。
 天主指図には池上右平のサインがある。池上右平は四天王寺流の大工であるが、この池上右平についても調べられていなかった。
天主指図を見て不思議に思ったのは天主台の中央に宝塔があることだった。インドでは仏様の骨を埋めた宝塔がなぜ安土城にあるのか。

−スライド:安土城内部−
 安土城の三重には、「ぼんさんの間」があり神様が祀られている。裏には舞台があり、その上に橋が架かっていた。
日本に吹き抜けの空間がある建物があるとは思っていなかった。
 天主が不等辺の六角形をしているが、六角形で宇宙を表現している、これは仏教でも使われている。
 信長の城下町作りの思想は名古屋や江戸でも生きている、当時の江戸は世界一の都市で、面積は45Km2、パリやロンドンは日本で云う中都市と位置づけられる。都市の面積で云うと小都市は5〜6Km2、中都市は10〜30km2であり、安土は発掘調査の結果や江戸時代の資料によると、江戸時代の中都市と同じ規模であった。

 以上のように安土城は戦いの城だけではなく、キリスト教も含めた宗教を包含した城で、信長はその安土城に世界の宗教を集めようとしていた。その精神を近江の精神として振り返って頂きたい。




文責:箕浦 2002.10.6




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