近江歴史回廊 戦国の道シンポジウム〜「秀吉と長浜」

開催日時:2002年9月28日(土)午後2時15分〜3時15分
講 師  :静岡大学教授 小和田哲男氏


■姉川の戦い・小谷城攻めと秀吉〜横山城の城番に抜擢
 今年のNHK大河ドラマでは姉川・小谷城攻めなど、近江が舞台となっていたが、主人公の前田利家と秀吉は歳はほぼ同じという説と、利家がひとつ上という説がある。
いずれにしてもほぼ同じ年代であるが、秀吉の方が出世が早い。武士の出世は戦功の大小によって決まっていたが、信長はそれまでの武功一点張りから、論功行賞の考え方を少し変えてきた。
 それが秀吉は利家よりも出世が早かったように、実際に戦って手柄をたてなくても抜擢していることから分かる。
 秀吉が手柄を立てたのは猿琢城(さるばみじょう・愛知県と岐阜県の県境)で戦わずして城を落とした。中国の兵法に「戦いにならず勝ち」というのがある、寝返り工作によって勝つという意味だが、信長も秀吉の才覚を買って抜擢していった。
 
美濃・尾張から近江に攻め込んだ信長が、北国脇往還道を押さえる横山城に秀吉をおいた意味は、浅井の家臣をどう寝返りさせるかだった。
元亀元年、信長が越前に攻め込んだとき、浅井は朝倉との関係を断ち切れず、反旗を翻すことになる。これは浅井長政よりも父・久政の意向が強かったようだ。
信長は姉川の合戦に備えて横山城に城番として秀吉を置き、竹中半兵衛を与力としてつけた。竹中半兵衛は調略が得意で浅井の家臣を調略するために信長から派遣されていた。
秀吉は浅井の家臣であった宮部城主・宮部継潤を調略、この時に秀吉は甥(後の秀次)を宮部継潤の養子とすることで寝返りさせている。この時の養子というのは実質的には人質であった。

■浅井討伐の論功行賞〜小谷城から長浜城
 天正元年に小谷城を落とした信長は秀吉に浅井領の湖北三郡を与える。この時、信長にはそうそうたる家臣がいるにもかかわらず、先輩格を城主にするのではなく、明智光秀や秀吉の新参者を城主・一国一城の主としていく。城主というのは近辺の土地の支配権(政治や経済に関する権限)を持っており、まさに一国一城の主で、軍事的に城を守る役目だけの城番とは大きな違いがある。
信長の家臣の中で最初に一国一城の主となったのが明智光秀で、坂本城の城主となり志賀郡を領した。その次が秀吉、その後遅れること2年で、越前北之荘の柴田勝家と続く。この時勝家は新参者の光秀や秀吉が城主になっていくことが面白くなかったに違いない。こうしたことも賤ヶ岳の合戦の要因として考えられる。

 秀吉が入った小谷城は、北国脇往還道の要衝にある典型的な山城で、今では本丸近くまで車で上がれるが、峰続きにある大嶽城(おおづくじょう)へは上がるだけでも大変な山城である。この小谷城に入った秀吉は1年で居城を今浜に移す。
今浜というのは "新しい浜" という意味で、今宿だとか今市等も同じように新しいという意味である。一説には信長の「長」を貰って長浜と命名したとも云われているが、名前の場合はそういったことはあるが、地名の場合はあまり考えられない。これからも末永く栄えるようにといった意味ではなかったか。
それまで長浜にも城がなかったわけではなく、上坂氏の上坂城や、下坂氏の下坂城等があったが、秀吉が長浜城を築いた所は上坂氏の出城があった程度の場所であった。居城を小谷城から長浜に移して城を築いた理由は信長の意向があったと考えられる。信長の築いた安土城は琵琶湖に半分以上突き出た水辺の城であるし、明智光秀の坂本城も水辺の城である。
つまり、信長は琵琶湖の制海権の掌握を狙っていたと考えられる。舟便を押さえるには小谷城は山過ぎたことと、北国脇往還道よりも北国街道から北陸方面を重視していたのではなかったか。その当時(天正3年)越前は信長領であったが、越後は上杉領、加賀は武士ではなく本願寺が治める本願寺門徒の国で、こうした国が出てくると困る、厳しい状況であった。
門徒から本願寺顕如への手紙の写しがあるので紹介しておく。
「かねて自分たちは信長との戦いで、いつも最前線に立たされて戦っている。浅井と交互に前線に立つようにしてくれ」と云った内容で、門徒たちが信長との戦いで弾よけにされていたことが分かる。
越前、越中、越後の敵をくい止めるのは小谷城ではだめだと云うことで、長浜に湖北の拠点を移したと考えられる。その時、小谷の城下町も強制的に移された、現在も長浜の地名と小谷の字名が一致するところが多くある。
秀吉は城下町作りを進める一方で、領地内を鷹狩りと称して巡検している。これは浅井家の家臣たちの生き残りの中で有望な武士を家臣として取り立てるためである。天正元年8月の小谷城の落城で浅井の武士たちが全員討ち死にしたわけではなく、城兵たちは落城と共に命を助けられる、あるいは逃げていく者は目こぼしされていた。この頃は兵農分離されておらず、城は落ちても村に帰れば自分たちの生活には不十しないという実体があった。
こうした状況下で秀吉は旧浅井の家臣に自分の家臣にならないかと誘いをかけた。
武士としてもう一働きしたいと考えている者は、秀吉に仕えることになる。この時浅井家臣から秀吉の家臣になることについて、後ろめたさはなかったかということだが、強い者に付くことで家を存続させていくということが、戦国の原理であった。
賤ヶ岳の七本槍の片桐勝元や脇坂安治もその一人で、秀吉は素質のある者をスカウトしていき、その中に石田三成がいたし、遺臣だけでなくその子供たちも登用された。

 近江の国は全国への情報発信の地であったし、物資が近江を通るということから近江商人が生まれた。単に武士と云うだけでなくそろばん上手な武士たちがいた。後の五奉行といわれるうちの三人が近江出身者で占められている、これは近江の特徴といえる。
 
■中国方面軍司令官としての秀吉
 天正5年、秀吉は中国方面軍司令官となるが、こうした「**方面軍司令官」というのは信長が軍を組織する中での特徴で、そこには必ず与力大名をつけている。秀吉にも竹中半兵衛をつけるが、半兵衛は次第に秀吉の家臣になっていく。秀吉は姫路城を築城する、現在の姫路城は関ヶ原以後に池田輝元が造ったもので、元々の姫路城は黒田官兵衛
の城であった。
黒田官兵衛は秀吉が中国方面軍司令官となって播磨に入ってきたときに最初に味方になった。秀吉は三木城攻めの時に姫路に城を築く。

秀吉が備中高松城攻めをしている天正10年6月2日に本能寺の変が起こる、秀吉は安国寺恵瓊ををうまく使って講和を結び、俗にいう中国大返しで戻ってくる。この時勝家も同じような状況であった。上杉景勝の支城魚津城を6月3日に落としている、この魚津城を落としたがために出張ってきた上杉軍と対峙していて、本能寺の変を知っても戻ってこれなかった。

■賤ヶ岳の戦いと秀吉
 柴田勝家は信長に仕えた期間も長いし、功績も大きいと思っていたこともあって、勝家と秀吉は不仲であった。。そんな軋轢が天正11年に賤ヶ岳の戦いとなっていく。
賤ヶ岳の戦いが起こる前年の清洲会議で秀吉は長浜城を手放し、勝家に譲渡する。長浜城には勝家の養子・勝豊が入城するが、秀吉は越前に退いた勝家が豪雪で動けない冬に長浜城を攻める。天正期は小寒氷期で特に降雪量が多かった。
秀吉は自分が築城して構造を良く知っている長浜城を大軍で攻めるわけで、勝豊はすぐに降伏する。その後秀吉は木之本まで出ていくが、岐阜城の神戸信孝に対抗して大垣まで軍を動かし、佐久間盛政隊が出てきたのを聞いて54kmを5時間で駆け抜け返ってくる。その時長浜城に兵糧や武器などを備蓄していたので、兵士たちは手ぶらで走ってくれば良かった。こうした点でも賤ヶ岳の戦い前に、秀吉が長浜城を落としておいた意味は大きかったといえる。
翌年に小牧・長久手の戦いがおこるが、その際に長浜の町衆が秀吉にフナ寿司を贈ったことで感状が出されていること等からも、秀吉と町衆の結びつきが窺える。


文責:箕浦 2002.10.6





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