城郭フォーラム〜村の城を探る 甲賀・伊賀の城〜シンポジウム概要〜

HOME < 現地説明会および講演の要旨集 < 甲賀・伊賀の城シンポジウム

開催日時:
  2004年1月25日(日)午後13時〜17時
会場:
  甲南町情報交流センター

コーディネータ:
  木戸雅俊氏 (滋賀県文化財保護協会)
パネラー:
  中井 均氏 (米原町教育委員会)
  福井健二氏 (伊賀中世城館調査会)
  福島克彦氏 (城郭談話会)
  米田 実氏 (水口町自治体史編纂室)
木戸:
 今日のテーマは甲賀の城、伊賀の城ということですが、甲賀や伊賀の地域は有名なわけですが、こうした地域にあるおしろが、一体どんな城なのか、みんなでもう一度考えてみようというのが今日のテーマではにかと思っています。
本日、発表いただきました竜法師城のように発掘されて出てくるものと、縄張り調査、つまり表面観察で出てくるものと、いろんな点で差があるわけですが、現地を歩いて見つかるものとして堀がありますが、この堀は何のためにあるのですか。

中井:
 堀と云っても甲賀郡の堀は空堀です。特に竜法師城は背面の尾根を掘切っています。これは背面の尾根の方が高く、戦いになると高い方が有利ですから、攻めてこられるのを防ぐために遮断して、お城を独立させるためのもので、後方の地続きのところを掘切って遮断しています。
望月城も上野城もそうですが、土塁の外側に横堀を巡らすことで、土塁の高さが倍になります。私の持論なんですが、城というのは何が大事かというと、堀とか曲輪ではなく、斜面が大事なんです。これを切岸と呼んでいますが、堀を掘ることで高い土塁を築き、切岸を登り難くさせるということだと思っています。

木戸:
 望月城の堀には水は無かったのですね。福井さん、これは伊賀でも同じですか。

福井:
 掻き上げ形式の堀は平地にあるので、水が溜まり水堀になっています。こうした堀は集落の潅漑用水にもなっていたのではないかと思っています。
切り込み形式とか、掻き上げ切り込み形式は、城の内部と堀の高さをみると、堀の方が高いです。これは堀切のことであって、これは四方には巡らさないし、水は溜まりません。
伊賀には平地の館形式を丘に持っていった望月城のようなものもありますが、大半は一辺だけを掘切ってしまう場合が多いです。
伊賀の場合は天正期に信長が攻めてくるというので、丘の中腹にもうひとつ堀を設けている場合があります。この場合は堀ではなく、「武者隠し」として機能するものです。こうした武者隠しの場合は人間が隠れる程度の深さですから、堀とはまた高さが違ってきます。

木戸:
 甲賀の場合でも、平地の城館には水があるのですか。

中井:
 話が足りなかったようですが、方形の望月城とか上野城の場合、方形館であるけれども、丘の上にあり、これらは空堀です。同じ形でも平野部にあるものは水堀になっていますし、この水堀からは、領内の用水の管理に使っていたということにもなるわけです。

木戸:
 土塁というのは多種多様なものがあると思いますが、甲賀における土塁の状況というのはどのようなものでしょうか。日本、あるいは近畿におけるものと比較して特徴があるのでしょうか。

中井:
 戦国期の城については、歴史的に城と伝えられていなくても、山の中で堀切と土塁と曲輪を見つけたら、まず中世戦国期に城があったと考えても間違いないと思っています。
そうした意味で、土塁と云うのは何処にでもあると思われがちなんですが、堀切と土塁と曲輪の中で一番少ないのは土塁ですね。特に関西の山城の中で土塁を見ようとしてもなかなか見あたらない。さらに曲輪の四周を土塁で廻すとなると、戦国期の後半、天正期ぐらいの織田の造ったような城でないと出現しない。
一辺だけでも土塁があっても、1m足らずのもので非常に低い。それを見て甲賀の城の土塁を見ると圧倒されます。おそらく日本では最大級の高さと幅ではないかと思います。
ひょっとすると、切り込み形式で削り込んでいっているのかもしれないが、それは土塁を発掘して断面を確認しないと断言はできないが、半分ぐらいまでは掘り込んで、掘り込んだ土を盛っていて、20人ぐらいの一族でも造れるのではないかと思っています。
甲賀では5mぐらいの土塁はざらにありますが、発掘されたことがないので、なんとも云えない。しかし我々が考える以上に合理的に造っているはずだ。

木戸:
 中井さんに甲賀の土塁の特徴をお話ししていただきましたが、伊賀ではどうでしょうか。

福井:
 平地にある掻き上げ式の土塁は比較的高いです。郷士の子孫が住まれている屋敷の周囲には今も土塁が残っています。これらは屋根が見える程度ということで、かなり高いです。ただ丘のある城は相対的には望月城ほどは高くありません。丘の上にある城は平地に比べると攻撃されることが少なくなるということと、切岸を利用するので内部はあまり高くない感ですが、伊賀には600数カ所ありますから、中には高いものもあります。ということで、伊賀でも甲賀でも大差がないというのが実感です。

木戸:
 土塁が高いことによって良い点というのは、外が見えないことですか。それとも内をしっかりと守れるといことでしょうか。それと、土塁の上には構造物はあったのでしょうか。

福井:
 私は実際に発掘調査をしたことはありませんが、発掘途中の現場を何回も見せてもらっています。しかし、土塁上に塀の柱穴というのがあるのを見たことがありません。ただ、土塁の上にさらに低い土塁を巡らしているのは伊賀にもあります。
土塁の隅に櫓台みたいなものがありますが、あそこに櫓が建っていたのかどうかは発掘例がありませんから分かりませんが、隠れたような形であるのが攻撃を受け難いという点からは良いのではなかったかと思います。

木戸:
 では土塁上に構造物はあったのか、また土塁内の建物との関わりは如何なものでしょうか。

中井:
 おそらく、土塁の上に柵列が廻っている状態、あるいは土塁の上に塀がある状態をイメージされていると思いますが、全国的にみてもこうしたものは1例もないと思います。いや、10ヶ所ぐらいはあるかもしれませんが、基本的に、年間に10箇所以上の中世城館が日本のどこかで調査されていますが、土塁の上から柵を建てた穴が出てきたとか、塀を建てた時の柱が出てきたというのはありません。
村雨城の土塁の一隅を見て頂きますと、ちょっとふくれている部分があります。近世の城郭でいうと隅櫓が建ちそうなところなんですが、甲賀では発掘例がないので分かりません。
ただし、我々もこうしたところに櫓が建っていたのと違うかなどとよく云うのですが、他の地域の発掘例では櫓がでてきます。
甲賀郡で出るのかどうか、調査例がないのでなんともいえません。土塁の中に建物があったかどうか、基本的なこうしたことすら分かっていません。
戦国時代の山城からはほとんど遺構がでてこない。当時の侍はこうしたところに住んでいたのか。伊賀では建物が調査の結果でていますが、甲賀では分からない。

木戸:
 曲輪の使い方として、物見櫓などがあったのではないかと云った使い方や、福井さんの例に頻繁にでてきます屋敷があった等、使い方によって違うと云うことですが、もう少しつっこんで本当のところ、どうなんでしょか。

中井:
 上野城は北に道路が走っています。「く」字型に土塁があります、途中で無くなっています。これは道路を造るときに無くなってしまったもので、これに伴って発掘をしているわけです。
上野城でいうと、端っこの方に、雑器類(すり鉢)等、16世紀後半のものが出土していますし、この外郭に居住するスペースがあったと考えてもおかしくはないのですが、ただ、ここも中心部分は掘っていないので結論は出せない。
 甲賀では丘の上にいた人達の子孫で今もここに住んでいるという人がいないが、伊賀の場合は結構いる。従って、本当に上野城に住んでいたのかどうかは分からない。

木戸:
 伊賀の菊永氏の館などでは、かなりの土器と建物跡が出ていますが、出てくる可能性というのは圧倒的に多いのでしょうね。

福井:
 平地にある館ですが、そこに住んでいた土郷というのは藤堂藩の時代には、郷士、つまり「無足人」という人たちは、給料をやらない侍、苗字帯刀だけを許しておいて、いざ戦いになるとでていくが普段は百姓をしている。
無足人といわれる子孫がそのまま館に住んでいますし、現在住んでいない館跡からも柱跡などがほとんどの場合で出てます、ただし、丘の上にある城跡になってくると、その大きさによってかなり変わってきます。
 屋敷のあったと思われる、かなり広い城には柱穴がでてきますが、すこし山の上にいきますと、ほったて小屋ぐらいのものが出てきます。
可能性の低かった名張市の青蓮寺にある愛宕山砦が、百合が丘という団地を作る際に発掘調査されましたが、その時にも小さな番小屋的な柱穴がでています。従って伊賀ではだいたい建物があったと考えられます。

木戸:
 福島さん、甲賀における城館の特質、構造は伊賀と奈良とも酷似していますと書かれていますが、甲賀・甲賀でみられる形態の城がたくさんあるのかどうか、類似点と違う点などについて説明ください。

福島:
 甲賀と伊賀が似ているということは、中井先生と福井先生のお話でだいたい分かったと思うのですが、奈良のひがしさんだいでも似たような状況があります。ひがしさんだいといのは奈良県の東側にある丘陵状の地形のところです、その地域にも方形単郭の城が分布しているということ。もうひとつ、伊賀と京都府が接するところの京都府側のところに南山城村という村があります。また、甲賀信楽町の近くに和束町というところがあります。こうしたところも同じように方形単郭の城館がある。お城でいえば甲賀とか伊賀の文化圏が食い込んでいるといえると思います。
南山城村の田山という村の中に2,3箇所城があり、西の城には現在も西条さんがお住まいですが、周囲には土塁が巡り、堀も廻っている。この土塁の隅部分には人を配置できるように造っているのではないかと思います。
また、土塁の中に住んでいたかどうかですが、西の城は江戸時代から郷士といった形で住んでおられます。問題なのは、江戸時代よりも古い時代に住んでいたかどうかです。
地元の方は古屋敷という呼び方をされていましたので、もしかしたら土塁で囲まれた部分の南側に住んでおられたのかもしれない。
 京都の桂・川島氏の屋敷跡には、土塁と堀の中に家が建ち18世紀には住んでいるのですが、江戸時代になって住んだのだけれども、それ以前の段階で住んでいたのかどうかは分かりません。このあたりは発掘調査などをしていかないと分からないと思います。

木戸:
 甲賀の場合、丘の上にある望月城や平地にあるもんも、あるいは小川城のように山上にある場合がありますが、これらは使い方によるものですか、それとも地形的なものですか。あるいは、住んでいる人によるのですか。

中井:
 機能の違いではないかと思います。小川城はわかりやすいですね、山城です。
標高が470m、真ん中に碁盤の目状に枡形が書いていますが、これは礎石建物が山の上から出ているんですね。おそらくは蔵で、「すさ入り」の土塀の壁土が出ていますから蔵になります。この上に住んでいたというわけでなありません。山麓部分に多羅尾氏が住んでいた館部分が残されていますから、これは居住と防御が完全に分離している。
 甲賀の鳥居城は、平坦なところに造られていますから平地の館的なものです。これは住んでいたと考えて問題ないと思います。問題は望月城や、寺前城、村雨城などで、徒歩2〜3分なんだけれども、背後に丘陵のある居城に住んでいたのかどうか。
先程来、木戸さんは城館という言葉を使われています。我々はこうした望月城のようなものを館城(かんじょう)と呼んでいます。これは館と城ではなくて、館的な城という意味です。
 住みながら防御をしていた、戦国時代には居住空間と防御空間は完全に分離して二元化しているというのが普通のあり方ですが、この望月城の場合は、それが合体している。それでは平地のものはどうかというと、平地のものは館でありまして防御というのは二の次であります。水堀になっているというのは水利慣行といいますか、田圃の水に使うという方がウエイトを占めている可能性が高い。
丘の上にある、望月城などのような城は一番わかりにくい。これは本当に謎です。こうした違いというのは城の機能に対する違いであろうと思います。

木戸:
 住んでいた人はいったい誰なのかといった点について、米田さんに中世の村の城について、文献の中からお話をしていただきたいと思います。

米田:
 城館を巡っては構造分析的なところ、あるいは考古学的な見地から大胆な想像も加えて分析されているなと感心した次第です。同名中であるとか、通説的にはその上にあった郡中惣であるような中地域のあり方、あるいは村落のあり方のアプローチ。そのほか甲賀53家、甲賀21家といわれるようなものが、トータルに明らかになっていかないと正直なところ、分からないのではないかというのが私の率直な考えです。
 発掘の話が先程出てきていましたが、甲賀郡は今まで発掘をやってこなかった訳で、発掘が進まないといけない。一方で郡中惣を説明せよといわれると大変なことなんですが、
水口町で云いますと郡中惣の研究という研究史から云えば、水口町史の石田先生が示されて、その後甲賀の城館政治的な役割を果たされた村田修三先生等が論文をお書きになって毎年、この同名中あるいは郡中惣の論文が甲賀郡の人々が知らないうちにどんどん出ていると云う状況です。
 個別の領主をベースに、それが同名中を構成して、それが対外的な問題、あるいは領主,村落の次元を越えた問題に対しては郡中において裁きをつけていくという郡中惣が戦国末期に成長してきたというのが定説になってきたいます。
それとこの城館研究がうまく結びついてくると思われていたのですが、一方で中世史研究の考え方が多様化してきて、個別の地域のあり方とか、郡中惣の生活基底なんかも、いろんな見方が出てきて簡単にはいえない状況です。
出来ればそういったものが三身一体的に分かってくるのがいいのかなと思っております。
 伊賀では住んでいるが甲賀では住んでないよと云った話もありましたが、末裔の我々が甲賀53家、21家といった由緒を云いたてて、多人物たちの地域社会におけるありようが伊賀とはずいぶん違って無足人といった身分に取り立てられることもなく、地域の中で渇き侍であったということを云いたてたり、近世の甲賀の侍たちの末裔の行動であるとか、彼らが云いたてた由緒であるとかに拘束されている状態であると思います。
そういうものが今日お越しの多く人たちが、甲賀53家の話や甲賀21家の話が出てこないやないかと思っておられると思いますが、そういうものが甲賀郡史以来、城館研究の最初だと思います。
このあたりの頭の中で整理しないままにきております。こうしたものが明らかになっていかないと思います、今のところは従前的な同名中、あるいは郡中惣の理解でいいのかなと思います。

木戸:
 日本史の室町ぐらいの組織、形態を把握するのは難しいことなんですが、地域に住んでいる人々の中から経済的にも武力的にも力を持つ有力な人が出てきて、土郷とか、国人領主、あるいは在地領主といった人がいて、同じような血筋をもつ人間同士が本家、分家のひとかたまりを作っていって、一つの組織、共同体みたいな掟,ルールの中で暮らしていこうといった自治的な組織を「惣」と呼んでいるわけなんですが、甲賀や伊賀だけに関わらず、近江一国はそうした自治組織の強い地域だと云われています。
守護がいるにも関わらず、下の力が圧倒的に強い、その人たちが自治組織を組んで領主と被官制度といった契約を領主と結んで、事があったときには出て行くと云った形態をとっていました。その当時、近江における守護は六角氏であったわけですが、鈎の陣の時に武功をあげたわけですが、その時に呼ばれたのが53家、武功をあげたのが21家ということになっています。
 その人たちが持っていたのが望月城などのお城で、住んでいたのが今の甲賀の城ではないかというが今のお話です。
 こうした話の中で、掟を持っていた人たちの集団である郡中惣はどうしても避けて通れないわけで、福井さんのお話では甲賀は郡単位ですが、伊賀は国単位で「惣」が構成されていたと云うことのようです。
また、米田さんからは村の城の考え方というのは非常に難しい側面があると云う話がありましたが、城の研究と郡中惣と関わりの中で村の城をどうとらえていけばよいのでしょうか。

中井:
 村の城というのは、城郭研究では村人が造った城と云われています。城郭研究と云うのは非常に不幸な歴史を歩んでいます。というのは、城というものの本質論は軍事的な防御施設であります。
日本は戦争に敗れた後、歴史学の中で軍事であるとか戦争に対して拒否反応を示してしまいます。そして、未だにアカデミズムが城の研究には取りかかってくれない。
ところが1960年代に発掘をし出すと、中国の焼き物が出てくるとかで、考古学側から城というのは中世を物語る遺跡なんだと注目してくれるようになりました。
同じように文献史学の人たちが村の城ということを言い出します。城というのは城主的な国家権力が作った軍事施設ではなく、軍事的な要衝や交通の要衝でもないところにも、城が造られている理由として、軍事に結びつけたくなくて、これは村人たちが集会を開く所なんだ。これこそ村の城なんだということで、軍事に対する対極の論理として村の城が出されてきたわけです。
私に云わせるとそんなことはあり得ないわけでありまして、村人が戦いの場を作るわけがない。彼らが合議をしたり、談合をしたりするのは神社であります。わざわざ城を造るわけがないわけであります。
交通の要衝でもないところに城を造るのかという事になりますと、これは先にも話をさせていただきましたが、城は武士のステータスであります。
10個の家しかない村でも、自分はそこの領主であると云うことをアッピールするために、造ったものが城であります。10軒の村であろうと20軒の村であろうと、そこの小領主、つまり在地の土豪としては城は造らなければならなかった。これこそが日本に3万もの城を造った要因であろう、甲賀に300〜400城が出来た要因でないだろうかと考えています。
今日は村の城を探るというタイトルになっているわけですが、文献史学の方々が云っているように、城を村人達が造ったものとして私は今日参加しているわけではなくて、村の領主達が造った城として観ています。これは当然公共性があるわけです。今、地震が起こったとしたら、何処へ逃げるかというと、広域の避難施設の学校であるとか、公園へ逃げるわけです。当然、戦国期の領主も村人に、いろんな提供をしないといけない。つまり用水を確保する、喧嘩の調停をするといったことで、村人から「じゃーお前を領主に認めたやろう」と云ったことになる。
村が何らかの震災時に避難をする場所として、城が村人達に開放される可能性は高いわけです。その主体はあくまでも領主で、村人では決してない。ですから、そういうものを含めた村の城と理解していただければ良いのではないでしょうか。

木戸:
 村の城をどのように考えておられるのか、郡中惣との関わりなどを含めてお話をお聞きしたいと思います。

福井:
 村の城について村人たちが心のよりどころとして造ったと云いましたが、最後は中井さんの云われるように最後は避難場所として考えています。しかし、いがでも600からのお城がありますから、これらの分類が必要だと思います。
居住に重点を置いた城館、丘の上にある城、山の上にある臨時の城など、こうしたものを分類していくと、いろんな整理がついていくのではないかと考えています。
伊賀でも伊賀惣国と云うよりも、宮座と云われるお宮さんを中心とした集まり、その中には土豪が何人か集まってくる、そこに「惣」ができ、だんだんと大きくなっていくということなので、甲賀に同名中、郡中惣とあるように伊賀では、宮座を中心として集まっていったのではないかと考えています。
 城の中でも望月城などは平地に平素の館があって、詰の城としていた可能性、伊賀でも地名から云うと、根古屋といって平素住んでいる城と戦いのための詰の城と分かれているものも若干あります。
六角氏と関わりのある阿山町の下友田の山奥にある館は「猫屋敷」と云われ、根古屋が訛ったものではないかと思われますが、背後に詰の城がありますので、平素は屋敷城に住んでいたものと考えられます。
伊賀の芭蕉公園になっています福地氏城は土塁に囲まれた平素の城とセットになった城で、現状は何処に、どんな城があるのかを調べ終わって段階ではないのかと思っています。

木戸:
 では福島さんにも「村の城」というものをどのようにお考えなのかをお話しして頂きたいと思います。

福島:
 天正20年の加藤清正の書状から紹介したいと思います。加藤清正が朝鮮出兵の時に朝鮮半島に渡って戦っているのですが、その当時の資料です。
---------------------- ココカラ ----------------------
天正20年9月20日付
吾郎哈(オランカン)百姓は巳下の体、守護たる者これなく、むかしの伊賀・甲賀のごとくにて、一在所一在所要害を構えこれあるについて、四、五ヵ所成敗せしめ候、ここにより、残る所何れも明け退き申し候間、放火仕り、まず討ち入り申し候事
---------------------- ココマデ ----------------------

 吾郎哈(オランカン)というのは、今で云うと朝鮮半島の付け根、北朝鮮のあたりですが、加藤清正という同時代の武将にとっても伊賀や甲賀の城は特殊なイメージでとらえていたことが分かる非常に希有な資料です。
こう云ったことから考えても伊賀惣国、甲賀郡中惣という場所がかなり特殊なイメージで城の分布も併せて観られていたということが分かるわけです。
 次に大原同名中の資料です。永禄13年(1560)の時代に、大原荘(甲賀町の周辺)の掟書です。これは東京の方でも写しが見つかっています。それによると最後の部分は今まで分からなかったのですが、記帳奉加が書いてあるということと、320名の苗字のある人、無い人、お坊さんの名前が書き連ねているおとが分かってきました。
村の苗字の無いような百姓も取り込んだ掟書だったという事が分かるわけですが、その内容のうち、

---------------------- ココカラ ----------------------
一、他所と同名衆弓矢同じく喧嘩の時、鐘を鳴らすにおいて惣庄の百姓等、堂僧に至るまで、ことごとく得道具を持ち、罷り出るべき者也、并、当所の内にこれある他所の被官等、その主敵の与にてこれなくば、兎角申し、罷り出ず候ば、その時本人として、詫び言をなすべき事
---------------------- ココマデ ----------------------


 大原同名中という甲賀郡中惣の中のひとつの同名中がほかの地域の人と立ち喧嘩したときに出されたものですが、その時にはお坊さんに至るまで武器を持って集まれとしており、甲賀における在地争論としてもおもしろい。
---------------------- ココカラ ----------------------
同名中惣劇に付いて、他所と弓矢出来事の時は、手はしの城へ番等を入れる事これあらば、各談合痛し、人数を差し入れ申すべき候、その時相互に如在申すまじく事、
---------------------- ココマデ ----------------------

 手はしの城とは前線のことで、番とは城番といった意味です。こうしたことに村人達が相談して人数を差し入れなさい、文句を云うなとしています。
村の城とか土郷の城ということではなく、村人がどう関わったかという問題設定をしていけば、話し合いをしている場面で城に対するイメージが変わってくるのではないかと思います。
私たちは村の城とか、土郷の城とか、分けて考えてしまうのですが、領主と村人がどんな話し合いをした上で城を維持しているのかを考えていく上ではおもしろいことですし、貴重な資料であると思います。

木戸:
 福井さんから宮座の話も出てきましたが、そのあたりも含めて、米田さんにお願いしたいと思います。

米田:
 伊賀,甲賀というのは、よく似ていながら、江戸時代になってから地侍たちの行方、歩んだ道というのは大いに違っています。その違いが甲賀の場合はやや不利に推移をして、自分たちの村に城がありながら誰の城であるか分からないといったことになっている。
戦後、中世史研究の中で取り上げられ、進んできたわけです。
宮座の問題でも、伊賀の場合とは違った推移をしてきています、近江においては宮座の発展は弱いところです。
文化財で云えば油日神社には楼門があって回廊があって、水口には柏木神社にも楼門があって、回廊がある。その中には視覚的に宮座の存在と郷の祭祀における地侍層の関わりというものが当然大きく関与していたことが想定されますが、近世段階においてはそういったものがほとんど解体してしまって、無足人にもなれなかった。
中世において彼らが連帯する村監督しょう争論、争いものの裁定とか、郷社級の鎮守社の神事、祭祀というものが連帯の契機になっている。
そういったときに場所と云うものについて、やはり郡中規模で集まるのは油日神社であるとか柏木神社です。同名中ぐらいになりますと、河合社、新宮社とかになってくるのですが、その時の標識として楼門とか回廊とか云うものが、一つの指標となって、郡中とは云いながら、実際は甲賀上郡の水口から甲賀にかけての杣谷であります。
領主と寺社の関係も含めて、そういったものが心のよりどころとなっていたことを考えると、今後、有力な神社にかかる資料の探索というのが課題になってくるのではないかと考えております、
もうひとつ、我々が持っている甲賀郡の甲賀武士のイメージというものが、江戸時代の甲賀コシと云われる人達が造った由緒を結果的に共有している。
 中世の小狭な領主としての甲賀の侍たち、近世における甲賀コシ、そして私たちの時代においてそうしたものをどう受け止めるか、またどう活かすかといった作業が必要ではないかと思っています。

木戸:
 村の城を考えるというのは、どういったところを見て考えていけばよいのか、今日は長々と皆さんにお話しいただきました。、
最後になりますが、言い忘れたことなど、期待することでも良いですし、今日の感想でも結構ですので、一言ずついただいて締めくくりとしたいと思います。

米田:
 今日は白熱した議論を聞きますと市史の中で城という巻を付ければ、よく売れるだろうなと感じた次第です。そいういう地域史を豊かにさせる資料としてこれから、それぞれの立場からどんどんと解明され、それが有機的に連動していくということが必要だと思いました。

福島:
 京都府の方では小さい城が無くなっていて、小さい城の方が遺構として残らない状況になっています。ですから甲賀のようなタイプのものが重要だということを訴えていければ、全国地域にも訴えていけるのではないかと考えています。
惣結合が強いから、甲賀とか、伊賀ではお城が残ったという事があるんですが、京都の方でも惣結合が強いのですが、お城という形で出てこないというところがあります。
なぜ、甲賀と伊賀では土塁とか堀とかを廻すタイプが出てきたのか、特殊な部分として考えていく必要があると思います。

福井:
 伊賀も甲賀は、行政の関係で三重と滋賀で分かれていますが、昔は隣の村であったわけで、こう云った中世の城を今更造ることはできません。当初あった城がどんどん壊されていっているのが現状です。
記録保存といった形で壊されていっているのもあります。折角こんなにたくさんの城が残っているわけですから、皆さん方の手でいつまでもこの城跡が保存されますように私の希望としてお願いしておきたいと思います。

中井:
 シンポとか、後援会とかへ云って「そんなすごい城やったんか」と云った具合に、地元の方が一番裏山にある城のことを忘れ去っておられて、城というと彦根城や姫路城をイメージしていたので、うちの村にあるのは本当に砦みたいなもんやと思ってたと云われますが、大きいから良い城だではなく、大作りでしょうもないしろもありますし、コンパクトで良い城もあります。
個々の城というのはそれぞれその地域なりの歴史を証明してくれる形があるわけです。まずはその城を地元の方が理解して、どう活かしていくかだと思います。
行政に身をおいている関係上、それを町づくりに使っていく時に地元の土郷であるとか
殿さんの城というのは、保存なり活用に利用していただきやすいという面がありますから、まずはそれぞれの城に理解を示すことが大事です。
皆さんは地元の裏山にある城を是非とも活用していただいて、それが字の人間関係の形成にとっての核になるような施設にしていただければ、単に軍事施設というだけではなく、先祖が残し伝えてくれ城を残し伝えていけるのではないかと思っています。

                                                                  以上
   2004年2月1日  文責:箕浦


  ・甲賀・伊賀の城シンポジウムに参加して




近江の城郭に戻る