パネル討論:鎌刃城から見た近江戦国史・織田信長VS浅井長政
開催日時:2001年10月13日(土)
開催場所:米原町中央公民館
司 会  :木戸氏 (滋賀県城郭研究所)
浅井氏側:太田浩 (長浜城歴史博物館学芸員)
織田氏側:加藤氏 (静岡県埋蔵文化財調査研究所主任研究員,織豊期城郭研究の中枢メンバー)
立行司  :小和田氏 (静岡大学教授)

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●木戸氏
今日は、パネル討論と云うことで太田浩さんには浅井側、加藤さんには織田側になっていただいて、各々の立場から鎌刃城を中心にいろいろと語っていただこうと思っています。
小和田先生には立て行司という立場で参加していただきます。

●木戸氏
まず、簡単なところからお聞きしていきたいと思います。
浅井氏の氏、素性からお聞きしたいと思います。

●太田氏
 浅井氏は三代、約50年ほど続いた。初代は亮政で、元々京極氏の被官だが、内部の争いの中から台頭してきて大永3年ぐらいから滅亡するまでを数えると約50年となる。
大永3年頃から京極氏に変わって、この地方の権力者となってくる。
亮政の時代の一番の課題は六角氏との争いである、そ当時の六角は定頼の時代で非常に強く、浅井氏は戦うと必ず負けるという戦いをくり返していた。そのときに越前の朝倉氏を頼ったという話になっていますが、私はこの辺りについては疑義がある。
こうして、朝倉の力を借りてなんとか湖北三郡を守っていったというのが亮政の時代。
二代目の久政は六角氏に対して比較的穏健な政策をとったと考えられる。久政の時代には六角氏との大きな合戦はなく、六角氏の下風に甘んじる時代であった。
長政の時代、最初は賢政といって、六角承禎の名前の義賢から賢の字を貰っていたが、永禄2年に、平井氏の娘を追い返したことで、六角氏との関係を断ち切って、亮政の時代に戻る独立する。
 久政は無能だったから隠居させられたと云われているが、決してそうではない。六角氏に対して強硬な路線を支持する勢力が台頭してきて、久政を引退に追いやり長政当主に据えて六角氏に対して攻勢をかけるようになる。
その後、信長との同盟を結ぶが、浅井氏が信長に反旗を翻したのは朝倉氏との関係ではなく、浅井、三好参人衆、武田、本願寺等の信長包囲網の一端に加わることによって多勢によって信長をたたこうとしたのが、直接の原因であると私は考えています。
ところが、そうした企ては成功せず、元亀4年の9月1日に滅ぼされてしまう。
 残った3人の娘たちは、それぞれ江戸時代まで活躍し、浅井家は女系として江戸時代まで残っていたが、大名としては続かなかった。

●木戸氏
続いて、織田一族の出自の説明をお願いします。

●加藤氏
信長のことは皆さん、浅井氏のことに較べたらたぶんよくご存知だと思いますので、簡単に説明します。
信長の家は元々、尾張にあるが、尾張の守護というのは斯波氏ですが、その斯波氏の守護代として織田家というのが二つあって、そのうちのひとつの織田家の家老が三人いる、うちのひとつの家老の家だった。
それが信長の親父、決して元々位が高いわけでも、地位が高いわけでもない。
ただ、信秀の段階で尾張の国に勢力を伸ばすので、信長自身が子供の時には大名とまでは行かないまでも、ある程度の地位を地位を保っていたので、おぼっちゃまで育っていくことができた。
信秀が死ぬと、今川義元が攻めてくるのを桶狭間で破って、尾張を統一すると岐阜に出てくる。岐阜を押さえると、すぐさまお市を浅井に嫁がせて、同盟を結んだ後、街道を確保して京に上がっていく。
畿内政権を掌握すると多方面に軍を出して、ほぼ天下を掌握する段階で本能寺で死んでしまう。
生き方があまりにも鮮烈であるし、死に方があまりにも華々しいものですから、未だかってファンがいっぱいいる。あのまま生きていて、たとえば秀吉のように惨めな最後で死んでしまえばそれほどファンはいなかったかもしれない。ああいった死に方をすることで、いつまでも鮮烈なイメージとして残っている所以ではないか。

●木戸氏
 戦国時代には綺羅星のごとく大名がいたわけですが、織田、浅井の両者は室町幕府からいたような人間と根本的な違いはあるのでしょうか。

●小和田氏
 根本的な違いというか、小さな勢力から大きくなっていく点では共通している。
浅井長政が六角氏と戦った野良田表の戦いが永禄3年(1563)織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いも永禄3年、戦国に鮮烈なデビューを飾った二人が同じ年、ほぼ同じ時期に戦国の表舞台に登場してきたというとことは、まさに共通している。

●木戸氏
 二人は拠点となる城を造って行くわけですが、小谷城の特長について太田さんにお伺いします。

●太田氏
 小谷城へは皆さん行かれたことがあると思いますが、皆さんが思っておられる以上に壮大な城です。
浅井亮政がこの地に出てきたのが大永3年と云いましたが、小谷城ができたのは、大永4〜5年ぐらいだと云われています。ただ、一気に造られたものではなく、徐々に造られて50年間の間に大きくなった云ったものです。

小谷城には清水谷という谷があり、ここは越前で云うと一乗谷にあたるところですが、この清水谷には家臣団の屋敷や菩提寺である徳勝寺であるとか自分の屋敷(御殿)が、谷の一番奥にありました。
また、知善院、徳勝寺等があり、周りの田圃や、郡上,伊部などの城下町が清水谷に展開されていました。

 尾根の上には小谷城,大嶽.山崎丸,福寿丸と、清水谷を馬蹄形に周りを囲むように砦がある。本丸の奥には山王丸、更には城下には城下町が展開していたという大規模な城であった。このように信長に較べても引けを取らない立派な城の持ち主であった。
 
●木戸氏
 この城が完成したのは、誰の時代で、いつぐらいのことでしょうか。

太田氏
 一般的に云うと、大嶽城山崎丸福寿丸は元亀年間の信長との最終的な合戦の時に出来上がった。朝倉氏の助力によって造られたと云われているが、そういうこともいえ無くはないが、私は元々ここに城があったと考えています。ただ合戦当時に越前衆によって作り直されたことは十分考えられる。
小谷城全体の構想は清水谷をU字型に砦で囲み、搦手にやけお.月初丸という砦もある。そういった雄大な構想になっていたというのは亮政の時代から変わらないと確信している。

●木戸氏
 織田方が安土城を築城する過程の説明をお願いします。

●加藤氏
 信長の居城はひとつではない、戦国大名の中では希有な出来事だと考える。。上杉謙信などは生涯春日山にいる、武田信玄も甲府から出ていない。自国から出て戦って勝っても、また戻ってしまう。ところが信長は清洲城を造るが、美濃を攻略するために今度は小牧山城に移る。元々あった自分の城を捨てている。また美濃を攻略すると岐阜城に行く。浅井をだまして京都へ行って中央政権である程度のことをやってしまうと、今度は岐阜を捨てて安土に行く。
もし、信長がこの後生きていたらどうなったのか分からないが、おそらく安土とは別のところに居城を移転していたであろうことは考えられる。
それに較べたら浅井は小谷城から動けない。
 どっちが良いのか分からないが、日本人というのは一度家を買うと、その家に一生すんで子供に譲って・・・・、アメリカでは、夫婦二人の時はこの家、子供ができて4人になったらこの家、子供が育って夫婦二人になったらまた家を変えるというふうによく家を変える。国土が広いせいもあるでしょうが、信長の発想の中には自分のために城を変えると云うようなことがあったような気がします。
 

●木戸氏
 小和田先生、お二人のお話を聞かれて、お城造りと云うことでご感想などありましたら
 
●小和田氏
 今のお二人の話は、非常に良いところをついています。浅井は三代にわたって小谷城に居城していた。一方信長の場合は父親の信秀も最初は "しょばた" というところから、名古屋城古渡城末森城 に移ったり、結構転々としている。だから信長の居城移転というのは彼のオリジナルと云うより、信秀のやり方をまねたのではないか。
信秀の場合は尾張国内だけであったが、信長は尾張一国にとどまらず、最前線に城を造っていったことが結果的に天下統一が出来たのだろうと考えられる。
 ただ、城的な作りからすると、小谷城は曲輪が2000ぐらいあって、全域が一種の不沈空母であったように理解しているが、そのような城を造って、最後までここで「がんばるんだ」という想いがあって、戦国時代の生き方の違いが城造りの根本に見られるのではないかという気がする。
 
●木戸氏
 その人の人生観が城の出ているということなのでしょうね。
小和田先生が云われましたように、小谷は浅井の特長が出ている、信長の居城は信長の意志の通ったものがみれるということのようです。
では、具体的にお城の中に違いがあるのかどうかというところを考えてみたいと思います。
織豊系とか織田系の城郭とか云われていますが、織田系の城郭の特徴はどういうところに見られるんですか。


●加藤氏
 織田系の城郭というのは、元亀年間頃を境に大きく変わってくる。信長自身もそうだが、近江の方に進出してから城の作り方が変わってきているのは事実だと思います。
 岐阜城にいる時点までは、現段階では信長が使ったと思われる瓦とか、高石垣は確認されていない。山麓部分に金閣寺みたいな建物があったという記録が残っているが、そこに至る虎口が岐阜市で発掘されている。これは大きな虎口で3m×2mぐらいの巨石が並んでいるだけで、高石垣を築くだとか、そういった技術は使っていないような気がします。
現在は偽物の城を復元してありますが、こういうものが建つようになったのが、いつのことなのかよく分かっていない。
 ただ、瓦が使われるようになったのが信忠段階だろうと考えられる。信長が織田家の家督を信忠に譲って岐阜城に入りだしたとき以降に出てくるのだろう。
ということは、織田軍の城の特徴というのは、小谷城に天守はあったのかどうかと云うことは大事なことだと思う。
 昔は、天守閣といいますが、あれはずーと新しくなって「閣」をつけだしたわけですが、要するに楼閣建築から、天守閣ができたという発想から「閣」をつけだしたわけですが、「天守」がどうしてできてきたのか、櫓を発展系でとらえていくと、それが天守になる。
 そういった技術の進歩によって櫓がいつの間にか天守になってしまった。御殿がいつの間にか天守になってしまったのか。それとも、あれそのものを信長が作り出した「突然変異体」というとらまえ方をすれば、櫓が天守になったわけではない。櫓はいつまでたっても櫓で天守にはなれない。櫓はいっぱいあって、それが全部天守だったら熊本城はそこらじゅう天守になっているはずだ。城内に天守はひとつ。
信長がルイスフロイスやパーテルオルガンチノであるとか、西洋人が持っているお城のイメージを自分の造らせたものが、安土城の天主であると考えられる。
信長配下者たちも、安土城を見て、とたんにいろいろ天守ができる。
たとえば坂本城(坂本は少し先行するが)であるとか北之庄城、姫路城のように、信長配下の武将たちはこぞって天守を造ります。それから石垣を積みます。瓦を葺きます。
 もっと面白いのは、信長が城を造れというときに、二人で共同で城を造れと命令を出していることがあります。細川藤高が確か宮津城を造るときに信長が文書で明智光秀と相談して造りなさいと命令している。ということは、ひょっとしたら信長の家来たちにとって城というのは自分の城でなかった可能性もあるわけです。信長の命令によって造らされている、その地方を押さえためだけの拠点、預かっているものという意識があったのかもしれないという気が最近しています。
 

●木戸氏
 近世城郭といわれている城が信長の変異体で突如生み出されたものなのか、元々ある技術力の中から育ってきたものなかというところがひとつのポイントであると思います。
 今の話の中で専門用語を含めて幾つかパーツが出てきました。たとえば天守、瓦、それと石垣、御殿、虎口、櫓等幾つかのパーツがそろって初めて城として成り立ってくるということですが、織田軍としては瓦、石垣とかというのは大事なパーツですか。
 
●加藤氏
 瓦というのは、大事だと思います。石垣も同様ですが。
ただ、石垣と瓦を織田軍団のすべての武将たちが使うことが可能だったのかというと、当時の技術者の問題、瓦を造る職人だとか、石垣を積むことができる職人たちをどれだけ動員できるのかと云うことによって、かなり違ってくると思います。
おそらく、それほどたくさんの数の技術者を動員することは不可能だったろうと思います。
安土城を造りながら、同時に並行して坂本城を造ることができるのかと聞かれたら、それはおそらくできないでしょう。また秀吉が大阪城と平行しながら聚楽第、伏見城を造ることをしていますが、それはその間に技術革新があったためで、たぶん織田段階では同時多発に二つの城、三つの城は信長自身の手によって造ることは出来なかった。信長が造れる城はたあひとつであった。そのほかの部将にとっては、自分の城をひとつ造るだけですから、そのときの技術者をどうするのかという問題はあったにしても、少なくとも光秀,羽柴秀吉,柴田勝家等、当時織田家の中で重要とされていた人物たちが造った城には瓦もあるし、石垣もとりあえずある。ということでかなり重要なパーツであったと思います。
 ただ、中には前田利家が越前府中に行った時の柴田の与力である府中三人衆の城にも瓦と石垣が見られるものがある。ということは、どの程度の地位であるかは分からないが、信長に認められれば瓦と石垣使うことができた。
 

●木戸氏
 浅井軍(太田さん)からも、同じことをお聞きしますが、加藤さんは元亀年間を境に信長が突然変異的にかどうかは分からないけれど、そうした城を作り始めて近世に席巻していくという話をされていますが、小谷城を振り返ってみて、たとえば石垣はありますか、瓦は、天主は、御殿はありますか。
加藤さんは石垣や瓦の使われた城ができたのは元亀年間ではないのかと云われていますが、同じ頃に小谷城に石垣や瓦があったのか、その辺りを説明ください。

●太田氏
 加藤さんの話によりますと、全部信長が造ったということになっていますが、これには承伏しがたいところが多々あります。まず、小谷城には天守閣がないと云われているのですが、小谷城の大広間があり、ここには御殿が建っていたことが分かっています。その後方に石垣で固められた一段高いところの本丸には、絵図からにても天守台以外何ものにも見えないと思います。本当は掘ってみないと分からないが、常識的には天守が建っていたと考えるべきだと思います。
 少し先走りますが、鎌刃城にしても一番北側の曲輪には5間四方の礎石が出てきたが、これは櫓が建っていたと考えられる。主曲輪に建っている櫓なので天守とは云えないかもしれませんが、こうした櫓から天守はできたのではないかと考えるのがふつうの考え方でありまして、どうしてすべてが信長の発明によるものと既決してしまうところに問題があると思います。
 
 また、石垣については、小谷城には、大広間、あるいは厩から山王丸にかけて点々と石垣が築かれています。特に黒金御門の周りには崩れた石垣がある、それに山王丸の虎口あたりには石垣で両側が固められている。更に本丸の西側斜面には大きな石垣が残っているし、清水谷から六坊に上がる途中の大野木屋敷にも石垣で造られた曲輪が存在します。
 このように考えると小谷城は中心部分はそう石垣で造られていたと考えるべきだ。小谷城の山頂付近は残念ながら発掘されていないので、よく分かっていないが、発掘すれば鎌刃城のような成果が得られるのではないかと思っています。
 だから信長が石垣を造ったというのは言い過ぎだ。
浅井氏にも最終段階には石垣もあったと考えるべき。
ただ、残念なのは瓦が出ていない。浅井氏の城には瓦は出ていない。

●木戸氏
 瓦のことについて、少し太田さんの応援をしようと思います。
織田方の天守を見ると至る所瓦葺きの建物がありますが、御所のような格式の高い建物には絶対瓦は使わない。檜皮葺き、こけら葺きが普通、室町幕府の建物、京都の洛中洛外図に書かれているすべての建物が檜皮葺きになっている。室町幕府では瓦葺きの建物を重要視していない
 御殿というのは檜皮葺きとかこけら葺きが当然であって、瓦が出たからすごい建物だと云うことでは無いのではないかと思います。むしろ無いほうが格式の高い建物が建っているのではないかと思います。当時の城を別にしますと瓦葺きなのは蔵とか台所とかお寺とか、そういったところしか瓦葺きは無いわけですから、そういうところを見ると必ずしも瓦があるから、無いからという論法はどうかなと思います。
 
 小和田先生お二人のお話を聞かれて、当時同じ頃に、同じような城を、両大名が築き始めて、石垣や瓦などいろんなパーツもありそうだと云うこと。また天守があるかどうかは分からない部分を秘めてはいますが、かなり労力のいることであり、経済力のいることでもあるだろうと思いますので、この辺り先生がどのようにお考えなのかお聞かせください。

●小和田氏
 一番難しいところですが、小谷城に天守があったかな、無かったか、と云うことひとつをとっても大変なことなんですが、私自身は太田さんが云われたように、本丸と称するところに、天守と呼んだかどうかは分からないですけれど、かなり高い櫓はあっただろうと思います。天守に相当する櫓はあった可能性は高い。
 石垣については、石垣と石積みは区別して考えた方がよいのではないかと思っています。
 石垣というと、裏側に裏ごめ石を込めたりして、4〜5mほども高く積めるようなものは石垣と云っても良いが、3段とか4段に石が積まれているようなものは土止めと区別している。鎌刃城の石垣をかなり高いけれど、裏ごめが無いという点では石積みと云った方がよいのではないかと思う。
 そういった技術は近江では早くからあったのではないか、それを石垣にまで昇華していったのが信長ではないかと考えています。
 信長は近江に入って、近江の先進的な城造りの技術を学ぶというか、うまく取り込んで、更に強固な城を造っていった部将ではないかと考えていて、軍配としてはどちらにもあげられない、といった感じです。

●木戸氏
 ありがとうございました。
話としてはかなりに煮詰まってきましたが、元々城というのは合戦をするために生み出されてくるものですので、必然的にその背景も考えておく必要もあるのではないかと思います。たとえば軍団の持ち方とか、戦闘の方法論の違いとかでお城の作り方が違うのか、あるいはものの考え方が違うのかをお聞きしたいと思います。
加藤さんのレジメの中に、織田軍は比類無き常勝軍団であるとか書かれていますが、常勝軍団がどういう形で生まれてきて、何か画期的ものなのか等、ご説明お願いしたいと思います。

●加藤氏
 簡単に織田軍の特徴を説明させていただきます。やはり、一番の特徴は、常備軍団になっているということだと思います。職業軍人化された軍団を持っているというのが織田軍の強みだと思います。たとえば武田の兵であるとか、上杉の兵は、自分たちの領地の中で米を刈ったり穀物をとったりするときには出てこれない。農閑期しか出て来ることができない。要するに職業として軍人化されていない。ところが織田軍は職業として軍人化されているから、年中戦争に行くことができる。要するに戦いのプロな訳なんですね、これは非常に大きなことだと思います。
 では、戦争をしていないときにはなにをしているのかと云うことですが、農業をしているわけではなく、集団訓練や鉄砲等の練習ができる。この辺りが他の大名とは最も違うところだと思います。
 装備については、信長軍の装備はかなり違う。鉄砲数は多いし、鎧甲にしても他の国のものと較べてもかなり軽装化されて動きやすくなっている。あるいは鉄の船を造っている。
移動するのに便利なように道路の幅を広げている。こうしたことをかなり強固な指令の元に行っている。そうすることによって他国に攻めていくときも、移動にかかる時間が短縮できる。
そのほか、浅井氏と較べると各方面によって責任者がいる。中国地方だったら秀吉が、北陸地方だったら勝家がいると云うように、このような体制にしておけば北陸方面が危なくなったら中国地方からも軍隊を廻すことができる。最後はこれで失敗して光秀に殺されてしまうのですが、短期間の中であれだけの領地を広げた要因ではなかったか。

●木戸氏
 太田さん、アマチュアの軍隊だと云われていますよ。(会場笑)

●太田氏
 確かに、常備軍の問題を先に云われましたが、兵農分離してプロの集団を作ったと云うところは信長の家臣団が強いところであることは認めます。
だから、最終的に浅井氏は負けてしまったわけですから。浅井氏の場合は完全に兵農分離というか、農業をやっているといることを否定することができないところに問題はあるのかもしれないが。
最終段階に至っては、佐和山城の磯野員昌は元亀元年6月の姉川の合戦が終わった直後〜翌年の元亀2年の2月まで、半年以上籠城して信長軍に対抗したり、坂田郡の天川流域の武将たちも籠城して戦うなど、常備軍への兆しは見えたのですが、なかなかうまくは行かなかったようである。
しかし、果たして信長によって兵農分離がなされ、更に秀吉によって進められ、そして江戸時代の農民と武士をはっきり分けたごけん制というものが、江戸時代の幕藩体制を作っていくわけですが、果たしてそれで良かったのか。と考えると、武士団が在地領地制といいますか、地元にいて農業を営みながら時には武士をするという形の封建建制が発展する可能性の日本の発展としてはあったわけで、あのようになったからあれがすべてで、すばらしいのだと、ここまた信長中心の私感としか云いようがないと思う。
日本の発展をひとつに否定してしまうところに危険がある。封建制の発展としてはもっと多様のものがあった。たまたま江戸時代にあのようになったと考えるべきではないか。

 各方面軍がいるという話ですが、信長が限りない拡張政策を採ったからです。こういう人だから天下を取れたわけですが、こういう人は戦国大名としては異常です。戦国大名・朝倉氏等は自分の領国を如何に守るかということが基本で、多方面に部将を使わして、あっちを取ってこい、こっちを取ってこいというのは戦国大名としては異常です。異常だから天下を取れたんだと云えなくもない。異常な形でそれが進化したと云えるのかどうかが問題で、領国経営と云うことを戦国大名として考えた場合、如何に境目の城を固め、本城を固め、自分の領国を守るかということに専念することが基本である。限りない拡張政策をとる人間は現在でもきわめて危険だ。
 
●木戸氏
 太田さん、もうひとつ鉄砲の問題で、織田軍団は鉄砲、鉄砲とよく言いますが、堺だけだけでなく近江にも鉄砲鍛冶がいると思うのですが、鉄砲鍛冶と浅井の関係をお話ください。
 
●太田氏
 鉄砲という道具は不思議なもので1丁では何の役にも立たない。国友にも鉄砲研究会がありますが、鉄砲に弾を込めて撃つまで15秒から20秒ぐらいかかる、戦国の合戦と云った場合1丁の鉄砲を撃って後が続かなければ、敵はすぐ近くまで来るわけですから、連発できないと自分も危なくなるわけです。
 戦国大名が鉄砲を持っていたということと、組織的に使えるかどうかと云うところにひとつの転換があるわけで、信長は長篠合戦で丘や柵などを利用し一斉に使うことで鉄砲を有効に使えるようになる。
組織的に多人数で鉄砲を使う方法を編み出すことによって、信長は鉄砲を有効に使えるようになる。これが初めてできたというのが天正3年の長篠合戦なんですね。それ以前の信長というのは確かに鉄砲を持っていますが、持っていたということから云えば浅井も持っていたわけです。浅井も国友(坂田郡国友村)の鉄砲というのを使っていました。
国友は江戸幕府の一大生産地になりますが、あんなに大きくなったのは、江戸幕府の政策で大阪夏の陣、冬の陣による大量生産だと考えられる。実際、国友の鉄砲が浅井長政の時代からあったということは、秋田氏に宛てた朝倉氏の一族の手紙があるが、その中に「国友丸筒」と出てきます、これは浅井長政や朝倉義景が生きていた時代であると分かる文書ですが、その中で大名間で贈答用に使われていた。こういうものでは武器にはならない。単なる珍しいものに過ぎない。
 確かに浅井氏の時代から鉄砲が造られていたことは確かです。浅井氏もこれを奨励して造っていた、これは信長も一緒だ。それを果たして組織てきに使えたかというと、これは浅井氏も信長も一緒で、天正3年以前の信長と浅井氏の鉄砲の使い方は組織的には使われていない。持っていたんだけれども、鉄砲を持っていたからといって信長が勝利したんだと云う議論にはならない。

●木戸氏
 小和田先生、合戦あるいは軍団から見た両軍の精神性があるのかということでお話ください。

●小和田氏
 織田軍団というのは結論から云うとそんなに強くはない。(会場笑)
ただ、一人一人がそんなに強くないから、集団戦法を取り入れたという、そんな側面があるのではないかと思います。だから浅井軍で云えば遠藤うき衛門みたいに一騎当千というような武士たちがいる軍団とは違う足軽戦法的なもので、その違いというのは両者はっきりしているのではないか。
織田軍の場合は戦う範囲が広いから、機動力に磨きが掛かるという側面がある。浅井軍の場合はほとんど近江国内で戦っている、若干京都の方へ出てきたこともありましたが。
そういった行動範囲の違いで戦い方そのものも規定されているようです。

●木戸氏
 織田、浅井の城あるいは合戦と云うことで、いろんな方面からバトルを戦わせてきたわけですが、番場の方から睨まれているような気がしますので、ここで鎌刃城の話をさせていたあだきたいとおもいます。
 ズバリ、最初にお聞きしようと思うのですが、発掘調査で発見された鎌刃城は、何時、誰が 造ったのですか?加藤さん。まさか、浅井とは云わないでしょうね。(会場笑)

●加藤氏
 皆さんみて頂ければ分かると思うのですが、ずいぶん難しいと思います。先ほど小和田先生がおっしゃったように、石垣ではないんですよね。裏ごめが入ってないので石積みなんです。じゃー、石積みだから浅井段階なのかというと困るんですが、じゃー織田が造ったのかというと「ちゃちーな」という気がするし、じゃー、浅井に全石垣をめぐらす技術があったのかというと、それも・・・・・・・。すくなくとも永禄年間の後半から元亀年間のどこかだろうという感じは受ける。
 全国的に見たら、近江というのは城郭の作り方が、すごく進んでいます。
 たとえば、私は静岡なんですが、静岡だとこんな石積みの城が出てきたら、それは天正18年以降、文禄とか慶長期のころのものだと思う。そこには何十年という差がある訳なんです。近江の方が何十年か先行している。それを考えると、「これは何時なのか」と云われると・・・・・・・・、。虎口の状況を見ると非常に小谷城とよく似ている。
 小谷城の虎口と同じなので、たぶん小谷城と同じ時期にあの虎口は造られたんだろうと思います。
 じゃー、あの小谷城の虎口を造ったのは誰かというと・・・・・、太田さんに云うとまたいやな顔をされるかもしれませんが、秀吉かもしれないんですよね、ひょっとしたら、秀吉は小谷城にかなり入っていますので。
 だから、浅井が造った城を秀吉がかなり改修している可能性は捨てがたいという部分があります。となると、浅井の段階にある程度、重要部分に虎口を造っていて、それを全曲輪を廻すようにしたのは、元亀年間にはいった織田段階であることも可能ではないか。どちらとも言い難い。

御殿ではないかと云われている建物は、1間が6尺5寸、あるいは半間ごとに礎石があるなどから、番匠が造ったことは間違いない。
ではどちらが番匠をあつめてくることができたのか、それを浅井ができないとは云えません。
近江というところは、そうした先進的な技術を持っていたことは事実だと思います。
浅井の段階に造ったものを織田段階に改修したと思っています。
 
●木戸氏
 私は、何時誰が築いたのですかとお聞きしたのですが、煙に巻かれたような気がします。
鎌刃城の関連年表から織田軍がこの城に入って、鎌刃城を築城するとするならば、この表でいくならば、何時なんですか。
永禄から元亀に入ってしまっていますが、もう少し限定したところで。

●加藤氏
 織田が造るとしたら元亀年間でしょうね。

●木戸氏
 元亀2年(1571)ぐらいですか。
 
●加藤氏
 あまり後ろに持っていきたくないんですよね。

●木戸氏
 では、廃城は元亀4年(1573)であっているんですか。

●加藤氏
これもいまいち分からないんですね

●木戸氏
 小和田先生、天正2年(1575)ですか、改易されたのは。

●小和田氏
 改易されたと云うだけで、廃城されたとは書いていない。

●木戸氏
 そうすると、元亀2年ぐらいが一番近いって感じですか。

●加藤氏
 元亀年間のどこかかな? 4年間しかありませんが。

●木戸氏
 もしも、この城を浅井方の力によって造られたとするならば、何年なんでしょか。

●太田氏
 難しいところだけれど、浅井氏が造ったとするなら、永禄年間かな。

●木戸氏
 では、永禄2年かな?

●太田氏
 長政の時代でしょうから、永禄7〜8年(1562〜1563)でしょか。
浅井氏の最盛期ですね。

●木戸氏
 そうするとわずか10年の差ぐらいですね。
どちらにも歴史上では作れる可能性はあると云うことのようです。
さきほど、加藤さんの云われた内容の中から、幾つか太田さんにお聞きしていこうと思います。
 小和田先生は、石垣と石積みは区別すべきだと云われていました、中井さんが石垣の隅に算木積みがあるとか、あるいは近世城郭のようにそりはなく真っ直ぐだとかいうように技術的な話が出ていましたが、あの石垣を見られて、小谷の石垣と較べられてどういう印象を持たれましたか。

●太田氏
 石垣については、細かいところまでは分かりませんが、結論から云うと非常によく似ていると思います。小谷城の石垣もぐり石は無いと聞いていますし、一部算木積みをしているところもある。お城の重要な部分を総石垣で巡らしていたという点では小谷城も鎌刃城も瓜ふたつではないかと思います。

●木戸氏
 加藤さん、織田軍の石垣構築の技術から云うと、安土城は天正4年からの構築になるわけですから、年代から云うと鎌刃城の築城は少し前になるわけですが、織田が造ったとすると技術的にはどうなんでしょう。安土城の石垣と比較した場合技術的に差があるのかどうか。
 
●加藤氏
 基本的には使っている技術の差は無いはずです。鎌刃の石垣というのは垂直に積んでありますよね。安土城の石垣はそりが出てきています、垂直に積むってことは限界があります。裏込めが無い石垣は必ず崩落してくる。
 元々あった近江の技術を信長が改良していくなかで、中にぐりを詰める、角度を変えていく、という試行錯誤の中で到達したのが安土城だと思いますので、技術に差はないけれど、結果的には大きな差が出てきているのではないか。
 それがわずか十年経つか経たないかの間に出てきているわけですが、結論を出すのは難しいですね。
 
●木戸氏
 鎌刃城を織田軍が造ったとすれば、元亀年間は小谷とか近江に普遍的にある築城技術を取り入れながらも、最終的には安土城を造る段階で技術革新を行っていくんだという考え方をすればいいんですね。
 一方、太田さんの場合は、最初から近江の技術としてあるんだ。たとえば織田がいなくて浅井氏が天下を統一していれば、浅井も同じような技術革新を行って、採取的に安土城ができたかもしれないということなんですね。
 
●太田氏
 その通りです。信長が鎌刃城を造ったとすれば時代はだいたい確定できます。それは姉川合戦の直前の元亀元年の6月から、長政が鎌刃城を攻めた元亀2年6月の間ぐらいで、信長がこの城を有効に使うとしたら、この1年間ぐらいでしょう。
その後は戦線が元亀2年の6月には佐和山は落城していますし、元亀3年、4年になるに従って小谷の方に戦線は寄っていく。その時点で坂田郡南部は戦略的に重要な地点では無くなってきます。この時に信長の大がかりな改修が行行うことはあり得ない。
そういうふうに考えると、元亀元年の6月からの1年間で果たしてあれだけ居住性のある御殿や周囲を石垣で囲い、立派な虎口のある城が必要か。まして碁石まで出てきている。
こいうことから、鎌刃城は信長が建てたものであるわけがない。
これは天正7,8年に浅井氏の全盛期に造り上げられていて、そのときに浅井の最新技術である近江式の石垣が確立されていった。それが最終的に信長によって変えられてしまうが、浅井氏がそのままいったら、必ずしも高石垣を組む城だけが江戸時代になったのではないかもしれない。ほかの石垣の組み方があったのかもしれない。
鎌刃城の石垣というのは近江の石垣技術、あるいは伝統的な城郭技術の最高峰に達した段階のものだと位置づけるべきものだと考える。

●木戸氏
 石垣だけではなく、石垣を使った部位、たとえば虎口ですが、信長の造る城の虎口というのは折れが入っているのが多いですが、鎌刃城のものはまっすぐ入る虎口になっています。この虎口は小谷式だと思いますが、加藤さんこの辺りは如何ですか。

●加藤氏
 まっすぐに入る虎口は浅井に技術だと思います。小谷城そっくりです。
しかし、全部が全部、浅井の手を借りて堀がやったとなると、困りますね。(会場笑)
先ほど太田さんが、戦線が小谷の方に移っていくから、そこに居住性のある建物を造らなくても良いのではないかというお話をされていましたが、たとえば秀吉なんかは全く自分が使わない御殿を横山城に造っているですよね。それはなぜかというと、信長を迎えるためにだけ造っている。それも何時来るか分からない信長を待っているんですね。
このように一般的にはとらえがたい部分が織田軍の中にはあって、可能性としては捨てがたい。

●木戸氏
 北の第六曲輪は我々が穴蔵と呼んでいる地下式になっています。地下式の穴蔵というのは近世城郭では天守の下でしか見られないわけです。そうしますとここに建っていた建物は天守なのかということですが、発掘してみるとここにベタの建物が建っていて、新聞記事では大櫓という表現がされています。また、天守の原型となったのかもしれないと書かれています。
もしも、これが櫓から発展していく途中の天守の元の姿としたら、織田軍よりも古い時代の天守と云うことになりますが・・・・。
私としては困るんです。天正4年以前に天守があると、今まで一番古い天守は安土やと言い続けていますので困るんですけれど、
この辺りはどうでしょうか。

●太田氏
 今ある浅井の城の中で、天守のあった可能性のあるのは小谷城と鎌刃城しか無いんですけれど、横山城は無いでしょうね、大きい城としてあった可能性があるのは佐和山城かなと云う気がする。
 信長の御殿として鎌刃城が必要だとか云われていましたが、おそらく信長軍団としては鎌刃城よりも佐和山城を整備するというほうが妥当だと思いますので、御殿があったとすれば佐和山だと思います。事実佐和山城には何回も泊まっていますし、鎌刃城には泊まっていない。佐和山城にもあった可能性もあるんですが、これも分かりません。

●木戸氏
 究極のところ、どうも難しいようで、どちらにも可能性のある物として認識しないといけないと思うのですが、今までの鎌刃城と調査の結果を踏まえて、加藤さんと太田さんに石垣と御殿、天主櫓について説明頂いたわけですが、小和田先生、一体どちらの技術なのかという問題、この御殿とか櫓があったという境目の城を、誰のために造ったのか、鎌刃城のことについて少しお聞かせ願いたい。

●小和田氏
 どっちとも考えられる難しい問題ですが、虎口そのものを見たところ、小谷城とそっくりな感じで、また石垣の積み方も小谷城と同じで、そういう意味からは浅井系の城であることは間違い無いだろうとおもいます。
 ただ、加藤さんも云われたように、小谷城ある石垣が本当に浅井氏時代のものなのかという確証がない。秀吉も一時入っていますから、秀吉の修築の時に石を積んだと云う可能性も全く捨てきれないので、何とも云えない。
 太田さんが先ほど云われた、浅井の一支城で山の上に本当に御殿が必要だったのかと云うことになると、疑問が残る。
 石段、御殿風の礎石、建物は、織田の時代なのかなと気がします、もう少し発掘の結果を待ちたいと思います。歯切れは悪いですが、どちらともとれる。

●太田氏
 御殿風の建物が建てられていた、居住性が高いといいましたし、小和田先生を云われましたが、忘れてはならないのは浅井長政の時代に京極氏がいます。
京極氏は久政の時代には確実に存在していたことが分かっています。その後突然高次が現れ、信長、秀吉に仕えるわけですが、この京極氏の拠点というのは坂田郡南部にあり、一時久政の時代には梓河内あったということが分かっています。この京極氏が果たして永禄末年にどこにいたのか、あるいは堀は京極氏を主としていた形跡もなきにしもあらず。ということを考えると、小谷に匹敵する大きな山城、かつ居住性があるということになると、浅井郡南部にかろうじて力を持っていた京極氏の存在、京極氏の城ということも念頭に置いて考えてみるべきではないか。勿論それは浅井氏の城の一貫としてですが、
あとは、鎌刃城だけではなく小谷城横山城山本山城太尾山城といった城の発掘が進むことによって、この鎌刃城の位置というのがもう少し明らかになっていくのではないかと思います。


文責:箕浦 2001.12.1



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