鎌刃城の近江戦国史における歴史的な意義づけ
「中世の山城跡から琵琶湖と水を考える」 シンポジウムにて講演)
開催日時:2001年10月13日(土)
開催場所:米原町中央公民館
講師    : 小和田哲男氏 (静岡大学教授)

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 全国でも有数の城が綺羅星のごとく並んでいるように「城の国」と云うような表現がされています。私の学生時代からいくつもの城を歩きましたが1300という城を全部歩くことは一生の間にはできないだろうと思いますが、できるだけ多くの城を歩きたいと思っています。
 今回、鎌刃城、文献では鎌の刃城と出てきます。私は"鎌の刃城"という呼び名でお話しさせていただきますが、この城がどのような歴史的な価値,意義を持つのかというような点を中心にお話しさせていただきたいと思っています。
 
浅井領と六角領の境目の城・鎌刃城
 鎌の刃城がどういう役割を果たしていたのかという点で、鎌の刃城の争奪戦を追いかける必要があるかと思います。
 かはのは城の城主は戦国期ですが、堀氏です。堀氏は北近江三郡の守護・京極氏の根本被官、つまり京極氏の譜代家臣であると江北記に記述されている。
その中に、今井,浅井が出てくるわけですが、この堀氏は浅井氏と同格の国人領主であった。
戦国期はご存じだと思いますが、浅井氏が同列であった国人領主と同盟して、国人一揆から戦国大名になっていった訳です。今井氏は近江町箕浦というところで箕浦城にいた。その今井氏が六角定頼に属していて、定頼の定という字を名乗りとして貰っている今井定清という六角氏の重臣の一人が鎌の刃城を攻めている。
そのころの資料の嶋記録の中に、天文4年(1535)7月6日付けで六角定頼が、今井定清に宛てた文書の中に、この鎌の刃城が六角氏最前線の城として位置づけられている。
この文書の中には鎌の刃城の「は」という字を「端」という字を書いていますが、当時地名というのは口で伝えます。それを誰かが漢字にするときにいろんな字を使う、いわゆる当て字が多いわけです。
いずれにしても、天文4年には鎌の刃城の争奪戦が繰り広げられていたというわけです。
地元の方はご存じだろうと思いますが、六角氏と京極氏という守護がいた、そのうち京極氏が没落という、国人一揆の盟主として台頭してきた浅井氏に地位と権力を奪われていった。
そういった中で六角対浅井という図式が出来上がっていった。こうした状況の中で鎌刃城の堀氏があっちへ付いたり、こっちへ付いたりと揺れ動く。当時の戦国の状況というのは大名領国という言い方をしますが、その領国の国というのは、ある意味では支配権が及ぶ範囲ですから、最前線の武将たちがどこまで自分たちに忠誠を誓っていてくれているかの違いとして現れています。そういう意味で六角方がここまででばって来ていたし、ある時には浅井方がこの辺りまででばっていたということは、その境目の城である堀氏が、どっちに付いているかによって、領国の線引きが決まっていた。いわゆる大名領国の版図となっていた。
永禄2年(1559)、私のような静岡の人間にとってみると、次の年が桶狭間の戦いですから、忘れられない年ですが、その永禄2年に六角氏の支配下に入っていた浅井氏の三代目の長政が父の久政を隠居させて、同時に六角方から押しつけられていた妻、六角氏の重臣平井さだたけ(定武?)の娘を離縁し、送り返した。
同時に六角定賢の「賢」と云う字を名乗りとして押しつけられて賢政と名乗っていたのを改めて長政と名前を変えた。
こうした時代ですから、浅井方の動きの連動して、鎌の刃城の城主・堀氏も浅井方になるということになる。
永禄6年(1563)10月4日付けの文書ですが、「南の儀、不慮の次第に候、よって高宮へ御定使わされ、しかるべく候、かの存分によって如何様にも、申し談ずべく候、ろじの儀、鎌の刃へご案内候わば」とい書かれており、鎌の刃と云う字が出てきますが、この資料によって、浅井方になっていたということが分かるわけです。
この差出人の長政というのが浅井長政ということになります。
この時点で、浅井と六角が争い、浅井方の最前線の拠点という形で堀氏が、浅井の家臣待遇と云うことで、この地域まで浅井の版図になっていた、ということがこう云った資料から分かります。

 では、堀氏というのはどういう部将だったのか、ということで、見ていきたいと思います。
 浅井氏の重臣堀氏と、その家老樋口氏と云うことで、樋口についてもここで少し触れておきたいと思います。
 浅井側に属したということで、城主というのには幾つかのタイプがあるわけですけれども、堀氏のように元々、自分の所領にいて、そこに中心的な城を構えているというのが一般的でが、力の強い勢力が及んできたときに、敵対するのかあるいは、それになびいていくのか。大きな力の前には滅ぼされると云うのが通例ですけれど、ぎりぎりのところで降伏する。滅ぼした場合は、滅ぼした側が別の部将を城主を押し込んでくる。
堀氏のように浅井氏の力が強くなって、家臣になった場合、たいていはそのままの領土を保証する(本領安堵)かわりに味方にする。
こうした場合、浅井氏の小谷城の支城として位置づけられる。
こうして堀氏は浅井氏の重臣としての位置づけと同時に、鎌の刃城は支城として位置づけられた。
 では、堀氏の家柄を寛政重修諸家譜(江戸時代の寛政年間に幕府が命令して幕臣に系図をださせてまとめたもの)の第12冊目に、堀氏のことが出てきます。
 堀氏の子孫は江戸時代1500石の旗本として残っていたため、寛政重修諸家譜に記載されている。ここで注目されるのは、「堀」初め新庄と称し、後改めて堀を家号とす。
どこまで信用できるかは分からないが、最初は新庄と称していたことが分かる。
「某、次郎 遠江守いまのていふひでもとにつくる
近江の国坂田郡きたの庄、堀に居城し、織田右府に仕え、後同郡鎌葉が城に住す」と出てくる。このひでもととい人物についてはよく分からないが、その系図でによりますと、その子供に"ながむら"という人物がいて、この人物は石見守と称し、従五位下に除せられて、織田右符に仕え、のち豊臣太閤にごんじし従五位下に任じ云々」とある。

当時の資料には堀次郎という名前で何度か出てきます。
当代記には、元亀元年(1570)堀次郎並びに家の子、三郎兵衛、信長に属し、これ鎌の刃の城主、武辺ものなり」とある。
三郎兵衛というのが、後で触れます樋口三郎兵衛直房という部将、堀次郎、歳15と出てきます。当代記という資料は、当代というのは家康の代という意味で、はっきりはしないが家康の家臣が克明に記録を取っておいたものを集めて家康の代の記録としてまとめたものです。
信長公記ほどの信憑性のある資料ではありませんが、比較的この時代の資料としては、後の軍記物あるいは家譜よりも信憑性は高いと云われています。
堀次郎が元亀元年の段階で15歳だったということは信用しても良いだろうと思います。
逆算いたしますと、こうじ2年(1556)の生まれということになります。当時次郎とかいうのは仮名(けみょう)といい、これは父子世襲していきますので、堀次郎と出てくるのは親の方の次郎さんなのか、子供のほうの次郎さんなのか、区別するのが難しくなるわけですが、こお寛政重修諸家譜では、有村(ながむら)という人物が堀次郎と云うことでほかの資料にも出てくる人物だろうと思われます。
配布しています資料の中に、「次郎左衛門之丞殿へ云々」と出てきます。そこに( )して「もと澄」と書き込まれています。この堀次郎左衛門之丞殿と有村(ながむら)と同一人物だと推定されます。
同じく資料に、宛名で「堀次郎殿」と出てきて、( )の中に「秀村」と書かれています。先の資料では「元積(もとずみ)」と出てきて、この資料では「秀村」と出てきて、全く別人だと思われてしまいがちだが、当時「次郎」だとか「次郎左衛門」と云うだけで名乗りが書かれてない、この場合はたぶん寛政重修諸家譜で「ながむら」と出てきている人物と、「秀村」と出てくる人物と、「元積」は、同一人だと考えられ良いのでは思っています。
当時、武将たちは殿様が変われば、名乗りの一時を貰ったりして、しょっちゅう名乗りを変えています。名乗りのことを「いみな」とか「じつみょう」とか言い方をしますが、「いみな」と云われるぐらい、普段口に出しては忌み嫌われる、はばかられる、ということで通称とか仮名(けみょう)という形での「堀次郎殿」とか「石見守」に任官していれば「石見殿」と呼ばれる。
実名は、忌み嫌われる言葉として忌むというきらいがある。
海苔というものをみていく時には、やや難しい。
誰の文書か、あるいは誰宛の文書か判定していくときに、当時の名乗りの障壁があるということが分かります。

 こうして堀氏を追いかけていきますと、注目されるのが資料の13です。天正2年の当代記の記述ですが「この年、近江の国鎌の刃城主堀次郎、同樋口、ご改易。その仔細、木下筑前守秀吉同心たりしが、小谷らっきょ以前は、秀吉は五万石、堀次郎は十万石の領主たるによって云々」と出てまいります。
 秀吉が五万石なのに堀次郎が十万石の領主だったと出てくるのは、この当代記だけですので、果たして其の通りだったのかと云うことについては、若干疑問があります。
 よく言われるように小谷城が落城し、浅井が滅びた後北近江三郡を与えられた秀吉は、十二万石ないしは十三万石だと云われていますので、ここに出てくるように秀吉が五万石だというのは、どうかなということと、堀の方が石高が多かったというのは合点が行かないと云う側面はありますが、いずれにしても秀吉にかなり近い大身だったということは間違いないだろうと思います。先ほどから何度か名前が出てきておりますが、その家老の樋口三郎兵衛之丞直房(なおふさ)、読み方は「ただふさと」と読んだかもしれませんが、この樋口直房は、堀家の家の子であるというような形で出てきていますけれど、むしろ私は重臣中の重臣、家老というような職責と理解して良いのではないかと思います。
 先ほども出てきましたように「ながむら」=「秀村」=「元積」、この堀氏の当主がまだ若輩ということで、その補佐役としての樋口三郎兵衛之丞直房の権限というのはかなり強かったと推定されます。いわば堀家の実権を握っていたのが樋口であるとみたほうが正確だろうと思います。
 そのことを裏付けるのが、資料の2です。
信長公記の「信長公ご調略をもって、堀、樋口をご忠節をつかまるべき旨、おん受けなり」6月19日信長公、御馬を出され堀、樋口謀反の由承り」と出てきます。つまり、常に堀・樋口でひとつなんですね。
ワンセットになって出てきていると見ても良いんでしょう。それは、先ほどの当代記の元亀元年のくだりの、「堀次郎、並びに家の子三郎兵衛之丞、信長に属し、鎌の刃の城主云々」にも書かれています。
信長からも一体のものとして理解されていたことが分かります。
これはやはり、樋口がいたから堀家というのが安泰だったという側面があるのではないかとおもいます。
これは上杉景勝の重臣に直江兼継がいるのをご存じだと思いますが、直江兼継にあたるぐらいの人だと思います
重臣がしっかりしていいたから堀家は世に出ていたといような側面があるように思います。

堀秀村に対する勧降工作
 戦国時代には勧降工作が頻繁に行われていたということを、近江の鎌の刃城を例に話を進めていきたいと思います。
浅井長政は信長の妹・お市の方を娶って、織田・浅井同盟が成立していったわけですが、朝倉と浅井の関係によって同盟は破綻します。信長、長政の一代の関係よりも、歴史的なつながりのほうが大きかったということでしょうか。隠居した久政が強行に主張したんだろうと思いますが、長政も乗ってしまった。
結局、朝倉との縁を重視して浅井が信長と手を切ることになります。最近の研究の中で浅井が果たして独立の戦国大名といえるのかという指摘もあり生ます。むしろ朝倉の一重臣ではないのかという意見もあります。一応私は北近江三郡を領有した戦国大名ということでお話させていただきます。
元亀元年(1570)の4月に信長が越前まで攻め込んだとたんに、長政が謀反を起こし、同盟が破綻をします。すかさず、信長は京へ一度逃げ帰った後、岐阜へ帰って兵をまとめ直して浅井との戦いに乗り出してくる。これが有名な姉川の戦いになるわけですが、この時期信長は秀吉を使って浅井方の家臣の切り崩しを積極的に進めている。其の中心になったのは秀吉の軍師・竹中半兵衛重治だったわけです。この竹中半兵衛というのは、作戦を進言するような参謀的な軍師ではなくて、むしろ、地理的なつながりを利用されたのではないかと思っています。現在の垂井町の菩提山城の城主だったわけですから、米原とは距離的にも近く、浅井側の重臣たちに対して勧降工作を順次行っていった、一番有名なのが秀吉が宮部けい潤を味方させるために姉の子供を宮部家の養子に入れることもしている。
その過程で、鎌の刃城の堀氏も信長方に寝返っていくのだろうと思います。
このいきさつが信長公記の元亀元年のところに出てきます。

「さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構え候。信長公御調略も以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。六月十九日、信長公御馬を出され、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取りあえず退散なり。たけくらべに一両日御逗留云々」
 こうして、堀氏が寝返ったことに勢いを得て、姉川の戦いにつっこんでゆく、ことになり、信長の近江進出ということについては非常に重要なことで、まさに鎌の刃城が要石ということが伺われる。
このいきさつについては当代記のついても同じような内容で書かれています。
その直後6月28日が有名な姉川の戦いということで、この辺りの細かい経緯については嶋記録結構詳しく記されています。
 嶋記録には姉川合戦のことという項目があって、「さるほどに元亀元年春の頃、織田信長、浅井下野守久政、同備前守長政がことにおよびしかば、小谷より箕口おさえとして、野瀬、かり、堀次郎、同家の子樋口三郎兵衛之丞を入れおきけるが、そのころ堀若年なりしが、三郎兵衛の所存にて、たちまち心変わりし野瀬の要害へ信長勢を引き入れ、おのが居城鎌の刃へ引きしりぞきしかば、刈安をはじめ近辺の城々ことごとく、あけしりぞけり、されば、今井小坊師丸母は堀次郎が伯母なり云々」とあり、まさに中山道と北国街道の分岐点を信長自身が重視していたことで、先に堀氏を寝返らせるという動きに現れていたということになると思います。

 こうした勧降工作に対し、浅井長政がただ手をこまねいていたわけではなく、寝返った堀氏、久徳氏といったこの地域の武将たちを浅井側から盛んに攻めると云うことになります。そういった事柄が織田信長の文書にも現れているように思います。
「久徳構えに取りかかるところ一戦におよび久徳りおえ、くびの注文到来云々」と出てきます。信長から堀次郎に感状が出されている。こうした動きが信長側の資料と浅井側の資料にも出てきます。たとえば嶋記録所収文書の中に、浅井方が堀側を討ち取ったということで「堀家来のもの二人討ち取られ首到来、最も珍重に候、いよいよ心がけ肝要に候云々」と出てきます。島四郎左衛門宛の文書とか、あるいは信長公記にもこそ辺りの動きが非常に克明に出てきます。資料3ですが、姉川の戦いの翌年、元亀2年のところで、「五月六日浅井備前、姉川までまかりい出で、横山へ差し向ひ、人数を備へ居陣候て、先手足軽大将浅井七郎、五千ばかりにて、みのうら表、堀・樋口居城近辺に相働き云々」といことで、両勢力の衝突の場所が堀氏の鎌の刃城あたりを中心に繰り広げられていたことが読みとれます。もちろん鎌の刃城だけではありませんで、浅井側のもう一つの最前線の拠点が佐和山城で、この佐和山城には浅井方の重臣中の重臣磯野員昌が入っておりました。この磯野員昌も信長方に誘われて寝返ることになります。
「元亀二年二月、磯丹波守(磯野丹波守員昌)、信長に属し、佐和山城を渡し、高島にあい移り云々」とでてきます。

そのほかにも面白い動きがいくつかあり、元亀2年2月25日付けの信長の文書があります、その文書は樋口直房と木下籐吉郎秀吉の両人宛になっています。これは佐和山城を解体した資材を両人に預けおくという内容のものです。これからも堀・樋口と木下籐吉郎秀吉が同じぐらいのレベルに位置づけられていたことが分かります。
 これは、信長にとってみれば堀、およびその家老の樋口を自分の味方に付けるのが、近江進出のキーポイントとなっていたために、横山城の秀吉と鎌の刃城の堀・樋口を対等な形で位置づけていた。

 鎌の刃城を拠点の城として信長が、どう手を加えていったのかということですが、平成10年から始まった調査によって、単に一国人領主である堀氏の城であるとは定義できない。もっと規模が大きいし、相当な土木作業が行われていることが明らかになってきました。信長の意志、あるいは信長の意向によって整備された城との印象を持っている。
このあたりは後半の討論会の中で明らかにされていくのではないかと思っています。

 信長の前衛軍団として位置づけられた堀・樋口ですが、その樋口直房が成敗される、あるいは堀秀村が改易されてしまうという、鎌の刃城の最後の一コマに触れておきたいと思います。
秀吉に殺される樋口直房と云った書き方をしましたが、戦国時代は食うか食われるかとい時代ですから、寝返ったから、ずーと安泰だったかというと決してそうではない。先ほども佐和山城の磯野員昌が寝返っと云いましたが、磯野員昌ですら、このあと信長によって体よく追っ払われると云うか、粛正されてします。
同じようなことが、この樋口直房についても云えることで、これが戦国の習いなんだと、云わざるおえないのではないか。
要するに利用価値が無くなれば取りつぶされるというのが、信長あるいは秀吉側の基本方針だったかどうかは別にして意向もあったということではないかと思います。
秀吉にしてみれば、当代記の言い方だと、堀氏の方が石高が大きかったことにもなるわけで、勢力が拮抗するような者が自分の身の回りにいると云うことは避けたいという思いがあるわけで、この場合は堀氏は滅ぼされる宿命だったのかなと思っています。
具体的には、ことがあったのは天正2年(1574)です。この時期織田軍団の一番大きな攻撃目標というのは、越前の一向一揆です。天正元年に戦国大名の朝倉が滅び、その後小谷城の浅井が滅びました。その次の年越前では一向一揆の力が盛り返してきて、「信長公記」では、信長はこの一向一揆に備えて、木の芽峠に砦をこしらえと出てきます。
この木の芽峠の砦に樋口を入れ置かれ候なりと出てきます。木の芽峠の砦を樋口直房が守っていたわけですが、「いかようの存分をふくみそうろうやらん、砦をあけ退き、妻子をめしつれそうらいて、こうかをさして駆け下りそうらいを羽柴筑前守追っ手をかけ途中にて成敗そうろうて夫婦二人の首、長島ご陣所へもたれこされ候」
樋口がなぜ砦を引いたのか分からないと云っているわけですが、一揆と勝手に和睦をして戦線離脱をしたことで殺されたようです。しかし、ここれは樋口直房は秀吉との仲が良くなかったのではないかということ想像されます。

 当代記から「堀次郎は十万石の城主たるによって、秀吉意見に服さざる条、間柄不快、近年、浅井へ内通つかまつり候由、秀吉言上によってかくの如し」天正2年の段階では浅井は滅びていますので、「近年、浅井へ内通つかまつり候由」の近年を、その前のとしまでの、浅井がまだ大名であった頃のことを云うんだろうと思うのですが、あるいはこの近年を天正2年というふうにとって、浅井の遺臣たちと裏で、手を結んでいたと読みとることもできるのかなと思います。この辺りは資料解釈になってきますが、意見の不一致であまり良くなかったことが根底にあって、堀・樋口のちょっとしたミスを秀吉がついて、この時点で樋口直房を成敗してしまったということが読みとれるのではないかと思います。

そうした上で、堀秀村ですが、「この年、近江の国鎌の刃の城主、堀次郎、同樋口ご改易」と出てくる。改易というのは、取りつぶしですので、堀次郎は殺されずにすんだわけですけれども、織田家から追放されてしまうことになります。その後の秀村はどうしたかということなんですが、当時の確かな資料がなかなか無い、堀次郎の去就について書かれたものがありません。わずかに寛政重修諸家譜の堀家譜のところに、"ながむら" という名前になっていますが、「織田右府に仕え、豊臣太閤にごんじし、従五位の下石見守に叙任され、・・・・・・・・・天正16年紀伊の国きりべ谷一揆蜂起して城郭を構え、郷土五六百人立て籠もる時に、ながむら、池田伊予守秀勝とともに大和大納言秀長が指揮従い、ことごとくこれを誅す」亡くなったのは慶長4年と云うことですから、もちろん秀吉の死後ですが、これによると秀吉の弟・秀長に仕えたという家譜になっています。浅井の遺臣たちが結構秀長の家臣になっていることが多い。
その後の堀家ですが慶長4年に秀村が無くなった後、秀村の子供秀信の時に、「近江の国堀,新庄、今井の三家に実子無きときは互いに三家のうちをして家督を継がしむ云々」と寛政重修諸家譜に出ている。「よりてながむがが養子となる」、新庄駿河守直頼の三男が秀信で、これが堀秀村の後を継いでいる。
その後二代将軍の秀忠仕えます。後には千五百石を与えられて家名を存続させ、後には旗本としてご書院番を勤めているため、あまり正確ではないのですが、堀秀村の父親ぐらいまでは明らかになるし、鎌の刃城に代々居城していたことも伺われます。

 今日は幾つかの資料を紹介しながら鎌の刃城の近江戦国史における歴史的な意義付けの概略をお話しさせていただきました。
近江には中世城館が1300あったということですが、特に安土、長浜および坂本を結ぶと三角形になり、その中の安土を鶴の首にたとえると、鳥が羽を広げているような、近江全体を鶴翼の陣にしている、そういう信長の城郭配置の中で、最初の頃〜ある時点までですが、鎌の刃城が信長の天下統一にとって非常に重要な役割を果たしていたというようなところをお話いたしまして、私の話は終わらせていただきます。


文責:箕浦 2001.12.1




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