鎌刃城の建造物を復元する 鎌刃城跡国指定史跡答申記念講演会
三浦正幸氏(広島大学大学院教授)

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 室町時代の山城はほとんど建物が建っていないのが常識である。しかし、中世の山城を発掘すると、掘建て柱の穴がいっぱい検出される。何がなんだかさっぱりわからん、その穴の幾つかを繋ぐと、掘建て小屋が出来る。だいたいの大きさが三間×二間ぐらい(6坪)のものが出ている。
勿論、掘建て小屋なので、10年は保たない。10年に1回づづ建て替えるとすると、200年間経つと、20回建て替えることになる。だから発掘すると、穴だらけになってしまう。往々にして、こうした情けないものばかり出てくるのが中世の山城ですが、鎌刃城は発掘成果によると掘建て小屋ではなく、一間を6尺5寸(京間・1m97cm)の間隔で礎石が検出されている。この礎石から観ると、山上の曲輪ぎりぎりまで建物を建ててある。こうしたことは普通はなくて、大変珍しい。

 鎌刃城は、今まで知られていた中世の山城とは全然違うものではないのかということが分かってきた。
山上には沢山の建物が発見されていますが、今日は一番センセーショナルと思われるものを選んでお話しようと思います。

 北の第六曲輪の周囲に土塁が廻っていて、1ヶ所に虎口があることが分かった。尚かつ、土塁の中に礎石がびっしりと出てきた。6尺5寸の柱間で、五間×五間ですね。(25坪)の建物跡が出てきた。これが一体何であろうかと、私が呼ばれまして、鎌刃城との関わりが出来た。
考えてみると非常にに変だ。周囲に土塁が廻っていて、その入り口の部分は一間ほどが切れていて、そこに石垣が入っている。
中にびったりと五間四方の建物が建っている。こんな変なものは見たことがない。ということになります。
建物はだいたいワンパターンで出来ていますから、だいたいのことは分かるんですが、この鎌刃城だけはさっぱり分からない。
要するに、土塁の中に建物が建っていると思ったから分からなかった。
五間四方の中に柱がいっぱい建っている、つまり、礎石が碁盤の目のように並んでいる。ところが、碁盤の目のように柱が並んでいると住めやしません。皆さんの家も部屋の中には柱はありませんよね、柱は部屋の外にありますね。
8畳の間で、一間毎に柱を建てると、8畳間のど真ん中に柱が立つことになって、こんなものは住めやしません。
そういうものは日本の建築として非常に不合理である。なおかつ、もっと変だったのは、周りがすり鉢状になっていることです。その土塁の際まで柱がある。
そこに柱を建てて屋根をつけると、五間四方の建物というと結構大きいですから、雨が降りますと大量の雨水が出ます。その雨水が全部、土塁に掛かります、土塁にかかると土塁が溶けるだけでなく、溶けた土塁の土砂が全部中に入ってくる、これは建物として成り立たない。
考えてみて、気がついたのは「これは穴蔵ではないか」ということです。このように考えると、おかしな土塁も説明が付いてきます。
 村田先生もおっしゃっていましたように、土塁というのは、馬踏みの幅の狭い土塁と、幅の広い土塁の2種類あります。
幅の狭い土塁は塀の代わりですが、幅の広い土塁というのは土塁の上に乗らなければならない。土塁に乗ると云うことは土塁に塀がなければおかしい。北の第6曲輪の土塁は幅が広い、穴蔵の中に立てた建物はもう一回り外まで建てたら、土塁の上にのっかる。そうしたら何とか建物になるのではないかと考えました。
五間四方の建物ですが、周囲を一間ずつ延ばすと土塁の上に乗ります。そうしますと七間四方(49坪)、畳にして100畳敷きぐらいの大きな建物が建っていたという事になる。
次ぎに、その建物が何かと云うことを考えますと、日本の建物で考えた場合、七間四方の建物というとたった2種類しかない。
ひとつはお寺の本堂、もう一つは御殿です。お寺があんな山城に建っているわけがありませんので、これは御殿だろうということになり、常識を外れたとんでもない建物が建っていたということである。
 なおかつ、御殿とした場合、普通は地下室はない。要するに穴蔵はない。ところが、御殿の下に穴蔵がある。これは一体何かというと、天守閣しかない、どう考えても天守閣になってしまう。

 豊臣時代の大阪城の天守閣(現在のものではない)、石垣の上に立っているが、石垣の間に入り口があるが、これが穴蔵にはいるための入り口で、その上に天守閣が乗っている。
大阪城の天守閣の石垣は、鎌刃城の北第六曲輪と同じように、ぐるっと回っていて、1ヶ所だけ切れている。

信長の安土城の天守にも穴蔵がある。鎌刃城の場合はこの穴蔵が五間四方、安土城の場合は九間四方で、安土城の方が遙かに大きい。
穴蔵の中に一間毎に柱を立てて、この柱の上に太い梁を渡す。柱の上に梁を渡すと、碁盤の目のように線が出来る。碁盤の目を台にして、その上に天守閣を乗せる、これが日本の天守閣の構造です。
 このように天守閣の構造を考えてみると、鎌刃城の北第六曲輪から出てきた五間四方の礎石建てで、廻りに土塁が廻っているものは安土や大阪城の天守閣と同じ構造をしていたのではないかと考える方が合理的である。
こうした事を想定して復元図を作ると・・・・・・当日の配付資料
名前としては大櫓、本当は天主と名前を付けたいんですが、天主と名前を付けたのは信長で、このころは天主というのはありませんで、大櫓とつけてみました。
鎌刃城の北第6曲輪に建っていたのは今まで曲輪と思っていたが、実はひとつの建物の台座である、というような気がしてきました。

 中世の山城の曲輪は小さいわけですが、曲輪の大きさとほぼ同じ様な大きさの建物がそのままどっかりと乗ってしまうということは、今まで考えたこともない。後の織豊系のお城を考えても、たとえば、安土城のの天主、これはあそこに天主が建っていたということが知られていたので、現地に行くと、ここに天主が建っていたんだろう分かるわけです。
もし、天主の存在が記録に残っていなかったとしたら、あの天主台は天主と思わずに、小さな曲輪があったと思ってしまうのではないか。そのように考えて見ると、鎌刃城は安土の天主の元祖であったのではないか。

 鎌刃城の北の第六曲輪の建物が、こうした大きな櫓に本当になるのかどうかということを、もっとまじめに考えてみたい。
まず、なぜ穴蔵があるかですが、平らにしておいてその上に建てればいいだろうと思うのですが、わざわざ地下室を掘って建ててある。
天守閣というのは、ほとんど地下室(穴蔵)をもっていて、穴蔵では、いろんな物をしまっていた。ある城では火薬庫、金倉等、物を入れる倉が穴蔵だったわけです。だから倉庫として使うために穴蔵があったんだと、今までの建築の先生方は云っていたんですが、これも、よく考えてみると、倉庫とするんだったら、わざわざ天守閣の地下を倉庫にする必要はないのではないか。本丸は土地が空いていますので、そこに倉でも何でも造ればいいじゃないか。と思う訳で。
そうしますと、この穴蔵は別の意味であったんだろうと考えるのが、普通なんです。
ではどういう風に考えるかというと、当時の技術で考えてみると、天守閣のような構造をもった建築物を穴蔵無し建てるほど勇気が無かったと考えるのが一番良い。
要するに、平屋の建物ならばまだしも、2階建て、3階建ての建物を建てようとする場合、当時の日本人というのは、高層建築というのは三重の塔や五重の塔しか、知らなかった。
ましてや人が2階に上がるような建物は滅多になかった。足利義満の金閣寺や、義政の銀閣寺がありますが、一般的には当時は平屋建ての建物で、二階に人が住むと云うことはあり得なかった。
天守閣のように三階、四階、五階の建物を建てるときに、非常に不安になります。ましてや、高石垣の上に建てるとなると、高石垣が積まれるようになって、まだそんなに年代が経っていない時代である。高層建築の重いものを石垣の上に乗せて大丈夫なのか、不安になる。
 後の尾張名古屋城の天守閣を建てるときにも、この時ですら問題になっていまして、結局どう云うことになっているかというと、名古屋の天守閣にも穴蔵がある。天守閣の重さは全部穴蔵の柱で支えている。そして穴蔵の廻りに石垣がある。この石垣の上に乗っているのは一階の外壁の部分だけなんです。
ですから、天守閣は石垣の上に建っているけれども、実は、重さはほとんど地下の穴蔵の礎石が支えていて、石垣は一階外壁の重さだけしか支えていない。これが天守閣の構造です。

 安土城の天主も、大阪城の天守も全部そうです。鎌刃城の場合ですと、五間四方の中に礎石が並んでいて、そこに柱を建てている。こう考えてみますと、この建物は重い建物ではないのかと考えられる。
先ほどの想像でいきますと土塁の上には乗っていないと、土塁は雨で溶けてしまいますので、少なくとも地下室をもって1階建ての御殿が乗った格好まではいったんですが、平屋の御殿にわざわざ御殿を造る必要はありませんで、どう考えても、この北第六曲輪にあった建物は重層の建物、二階以上の建物でないと、このような馬鹿馬鹿しい建て方はしないであろうということになります。
 平屋ではないとすると、屋根の上にもうひとつ建物を乗せることになります。日本の建物というのは屋根の上にどんどん乗せて造っていくのが古い時代の建て方でしたから、
鎌刃城の場合を考えると、七間四方の建物の上にもう一つの建物を建てると、ものすごい巨大な屋根裏部屋が出来てしまいます。屋根裏部屋があるとすると、三階建ての建物よりも高くないと建物として成り立たない。
従って、鎌刃城の建物は、地下一階で、地上は最低限三階建て以上というふうになってしまいます。
最低限三階で、上限は分からないのであります、あまり過激なことをいうと問題があるかも知れませんので、とりあえず限度の三階建てで復元するとどうなるかというと、私の資料のように、屋根裏の中に二階を造って、そのうえに三階を乗せています。
これで行きますと、屋根が下と上にありますから、二重で、内部の階数が地上三階、地下一階という形になります。
こういう形になりますと、後年であれば必ず天守閣と呼ばれる建物です。
信長が安土城を築く前ですから、特別大きな櫓と云うことで「大櫓」と名前を付けておきました。総合的に見ていきますと、どうしても資料の図のような形にしかならない。日本の建築は先ほども云いましたが、ワンパターンにしかならない。
25個の礎石だけで、よくこんなことが書けると云われるかも知れませんが、これ以外のことは考えられない。
ひとつだけ条件がありまして、発掘が正しく行われていたらということです。(笑)
発掘は中井先生ですから、発掘が間違っている訳がないと確信しています。

 香川氏が描かれた鎌刃城の推定復元の絵があります・・・・・・・・・当日配布の絵はがき
屋根を見て頂きたいのですが、屋根は柿皮葺きといいまして、薄い木の板を重ねて葺いたものです。
柿皮葺きの天守閣などは火をつけられたら、燃えてしまうだろうなと思われるかも知れませんが、天守閣は七間四方の御殿です。御殿の上に建物を乗せています。お城の御殿も、将軍家の御殿も、屋根には瓦を使わないというのが、大原則です。瓦というのは城門と櫓に使うものであります。
櫓と云いましても。大櫓ではなく、小さな軍事的な櫓ですが、櫓には瓦を使うが、御殿には瓦を使わないという大原則がありましたので、瓦を使わずに柿皮葺きで書いているのだろうと考えられます。

 この大櫓が本丸ではなく、一番端の北の第六曲輪に建っているということで、なぜ本丸にないのかということですが、近世城郭になっても、山城というのは天守閣は必ずしも本丸に建っていない。途中の端の方の見えやすい所に建っている例がたくさんありますので、そういった点からも、この大櫓が鎌刃城の天守閣ではなかったのかという気がします。
 織豊城郭、近世城郭にしても、穴蔵を使って高層建築を建てるという基本理念が信長の安土城も、大阪城も、名古屋城、江戸城も、全部建てられている。そういったことから考えてみますと、この鎌刃城というのは、日本全国の元祖であっただろうと、高く評価することが出来る妥当考えます。
鎌刃城から日本の城が始まったと、というようなことで私の話は終わらせて頂きます。


                                                           以上
   2005年2月10日  文責:箕浦



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