長島一向一揆と尾張
講師:播磨良紀氏(四日市大学)
(2003年9月28日清洲町民センターで講演されたものです)

HOME < 現地説明会および講演の要旨集 < 長島一向一揆と尾張


◆河内長島と長島願証寺
 長島という地は木曽三川がひとつになって伊勢湾にそそぐ、愛知県と三重県の間で現在の三重県の桑名郡の多度町、あるいは長島町を指し、木曽三川で囲まれたデルタ地帯ですが、現在の木曽三川の流域はかなり変わってしまって、今日話をする願証寺などは川の中に沈んでしまっています。
 長島町史に載っている長島周辺の絵図を見ると、現在の地形とは異なっており、中央に長島があり、幾つかの島からなる形態をとっていた。この絵図は現在では無く、原図となる伊藤富太郎さんの文書なども見たのですが、この絵図は残っておりません。長島町史に載っているのが唯一の絵図になりますが、この絵図の信憑性については、なかなか判断の難しいところです。ただ、延長年間の18世紀前半の絵図が出てきており、その絵図にも中央に長島があって島が幾つか並ぶと云った地域で、ある意味で長島町史に載っている形態というのは想定できると思います。
 信長記の中にも「そもそも、尾州河内長島は隠れ無き節所(せっしょ)なり、云々」と書かれ、そういう様相が見えています。
長島古絵図(天正期における長島の地形と一向一揆の城砦群)
一向一揆の城砦群

長島はこうした木曽三川に囲まれたデルタ地帯であり、水上交通だとか漁業の要地であったとされています。
信頼性と云う点ではいろいろ問題はあるかと思うのですが、後年の資料である勢州軍記などには、「長島近辺島々には海賊・・・・云々」といった海賊衆のことなども後世の資料には描かれていますし、木曽三川が人々を運ぶと云った役割を持っていたことから、「渡り案内」という資料にも、天文7年に近江の戦国大名の六角氏が尾張に使いに出した時に、長島の小物を連れ使者を案内したいう記述も出てきます。
 このように長島は浄土真宗の願証寺というお寺があるだけではなく、水上交通であるとか交易などに重要な位置であったことが推定されます。

長島一向一揆を支えたもの
 長島の願証寺は香取郷杉江というところにあったが、この願証寺がいつ出来たかということについては諸説があります。蓮如上人が伊勢,尾張に教えを広めていく過程で、蓮如の第13子の連順をこの願証寺に入れたと書かれており、この連順が開祖だという説もあるし、その前からだという説もある。
 このように願証寺は蓮如の息子を入れたという説もある寺なわけですが、戦国期本願寺の三院家として、大阪本願寺に仕える重要なお寺として、願証寺、三河の本宗寺、播磨の顕証寺があり、願証寺は南美濃、尾張,伊勢を統括するような位置づけで浄土真宗のお寺として登場します。しかし、場所が川で囲まれたところですから資料には河内御堂という表現で出てきます。
 では、長島一向一揆はどのような組織であったかということですが、これがなかなか分からないのですが、この度集めた資料の中では、長島一向一揆を起こす主体は長島願証寺の僧侶で院家とい人物がいます。
それに本願寺坊官の下間氏ですが、従来の資料の中でも下間の存在は出ているが、今回の資料で明確に下間が出てきました。
下間武士というのは、下間豊後と下間三位(さんみ)であり、下間豊後というのは、下間頼重という人物と考えられ、下間三位というのは下間頼且(頼達)と考えられます。
現在の願証寺
願証寺

 願証寺と関わりのある香取法泉寺は、現在も香取郡にあるお寺ですが、もともと法泉寺から願証寺が出来たとされています。言い忘れましたが、現在でも長島に願証寺はあるのですが、一度無くなって明治に復興したもので、願証寺という名の寺は尾張・日野脇坂にもあります。
 香取の法泉寺では、11代の住職の安田空明という人物が出てきます。この空明が、下間豊後とともに一向一揆として信長と闘ったという記載もあり、香取一揆として出てくるのは、空明を中心とするものだろうと思われます。
 願証寺や法泉寺という寺以外に考えられるのが国人、もしくは土豪衆で、いわゆる在地の有力者たちです。北伊勢の研究をしている人は北勢四十八氏という言い方をしますが、こうした名称は資料には出てきません。国人土豪というのは北方一揆という名称で出てきます。
長島よりもう少し南の伊勢・朝明町(あさけまち)を中心とする地域に、国人土豪衆がいて、後世の記録では彼等が長島一向一揆に荷担した可能性が考えられると書かれています。
しかし、よくみてみると疑問がある、織田信長が永禄10年(1567)からの北伊勢攻めを行い、永禄12年(1569)には北畠氏を制圧しますが、その時には北伊勢の国人たちは信長に従っている。
 信長はしたたかな面があり、上洛して天皇の御所を修理しますが、そこで全国の大名たちに手紙を出しています。「この度、御所の修理をしたので、挨拶に来なさい」と云った内容で、「武家御用」と云われる。つまり足利義昭と天皇に挨拶に来なさいというわけですが、天皇と足利義昭に挨拶に来ると云うことは、信長に挨拶に来ることになり、結果的に信長に従うことになる。
当然の事ながら、信長に敵対する武将たちは挨拶に来ないわけで、挨拶に来なかった越前・朝倉氏は「不忠である」ということを名目に、信長は朝倉氏を討つことになる。
 挨拶に来た武将の中には、伊勢の国人衆たちも入っており、そうした国人たちは信長に従うという姿勢を示している。
こうした北伊勢の国人たちが、果たして長島一向一揆に加わったのかどうかと云うことは考えてみる必要がある。
 桑名周辺の国人たちは信長に攻められているので、国人の中には一向一揆に加わる人たちもいたことが分かるが、従来から長島一向一揆は門徒たちと北伊勢の国人たちという言い方がされていたが、むしろ違うところにあるのではないかというのが私の考えです。
 さらに重要なのが尾張西部の人々で、ここに登場するのが、荷之上鯏浦服部左京亮という人物が出てくる。注目すべき人物だろうと思います。
信長公記に「上総介信長、尾張国半国は御進退たるべき事に候へども、河内一郡は二の江の坊主、服部左京進押領して御手に属さず。云々」と出てくる。
服部左京亮というのは、ほかにも出てきます。同じく信長公記ですが、桶狭間の戦いの時に「河内二の江の坊主、鯏浦服部左京助、吉本へ手合として、武者舟千艘計、海上は蜘蛛(虫に朱という字)の子をちらすか如く、云々」
また、桶狭間の戦いの時に今川氏に味方して千艘の舟を出している。千艘の舟を出すこと自体相当な勢力を持っていたと考えられ、長島一向一揆の主要部隊と考えても良いのではないか。
香取の法泉寺
法泉寺

 その他には北畠家臣で大島親宗(長円寺浄念)がいた、木曽三川の東側(尾張の西)立田(長島町北部から愛知県にかけての地域)という地域に立田門徒という西勝寺がとりまとめる本願寺の有力な門徒団がいた。こうした尾張,美濃,伊勢の願証寺門徒衆(「天文日記」にも書かれている)が関わっていたと考えられる。

 津島祭との伊勢香取との関係、あるいは法泉寺空明とも関連がある。織田信忠判物(植原家文書)に「津島天王葺師大工之事、香取一揆持分為雖も」という一文がある。これは天正3年の文書ですから、長島一向一揆は終わってはいますが、津島天王社の屋根を葺くことは、今回退散をしたから、熱田の葺師の与三左衛門屋尉に、これを相続させると書いています。
従って、津島天王社の屋根を葺くのは香取一揆から職人が出されていたわけで、浄土真宗を侵攻する人は職人の人たちは多いだろうと考えられます。
 三河上宮寺勝佑・信佑父子が参加している、永禄年間に三河一向一揆が起こり、三河の三ヶ寺である上宮寺であるとか、 "ほんそう寺" であるとかが、徳川家康と闘った。一揆方が破れて、上宮寺等の寺が押さえられてしまう。上宮寺の住職であった勝佑・信佑というのが長島一向一揆に参加している。こうして経緯を書いたものが上宮寺に残っています。
三河上宮寺は尾張とか伊勢にも末寺を持っている、そうしたメンバーもこの長島一揆にお参加したであろうと思われます。上宮寺縁起というものがあり、これには上宮寺の僧侶が長島で闘っている姿を生々しく描かれています。
 勝佑・信佑というお坊さんは島一向一揆が滅んだ天正2年(1574)9月29日に尾張・刈安賀で戦死しています。
我々、長島一向一揆は長島だけで戦いがあったと思っているわけですが、刈安賀の周辺まで広域的な戦争であった。

 美濃斉藤氏が永禄10年(1567)に信長に攻められて、斉藤龍興は長島へ逃げ込む。信長はこの年に長島を攻撃している。こうした斉藤氏が長島一向一揆に加わっている。龍興はその後、長島を出て、天正元年の9月に亡くなる。
また、斉藤氏の家臣である日根野弘就が参戦しており、斉藤氏の遺臣たちも一揆衆に加わっていた。この一揆の時に信長は美濃の太田一揆とも戦っており、長島だけではなく尾張とか美濃の南部の美濃太田でも戦いがあった。
それ以外に、武田信玄・勝頼なども関わりがある。天正2年、勝頼が長島一向一揆に手紙を出している。「信長は長々と在陣しており、家臣達は大変疲れている、その時にすぐさま遠州で出兵をする」と行った手紙を出している。
 浅井もたえず長島と連絡して、長島の様相をみたし、六角氏も関連がある。元亀元年の攻撃の時には信長が六角攻めをしているときに、こうした一揆が起こった。近江との繋がり、あるいは近江の一向一揆との繋がりも考えられる。
 更に、伊勢湾岸の諸都市、これは稲本さん等が明らかにされているが、最近伊勢湾岸の諸都市において海運が発達していたことが云われています。こうした諸都市と長島との繋がりが考えられる。
たとえば、大湊。大湊は伊勢神宮の外港で関東と貿易をする重要な港であった。天正元年に信長は大湊に対し舟を出すように命じる。ところが、大湊は舟を出さない。大湊から日根野弘就が足弱衆(女性とか子供達)を運ぶんでいる、信長はこうして舟を出した者を探している。足弱衆を運んだりしていることから長島との関係も考えられる。
長島一向一揆は長島願証寺を中心とする一揆だけではなく、こうした尾張であると美濃の等周辺の諸勢力をタイアップしていた。特に織田信長包囲網、武田、浅井、六角との関連も考えられる。当然といえば当然ですが。
 長島というのは経済基盤が相当あった。木曽川の水運で租税をかけ、流通路を支配していた。長島攻めの流れを見ていくと、流通路あるいは交通路を封鎖している。一向一揆が戦いをするというのは、単なる戦争ではなく流通路、交通路を確保して、遮断したりしている。

◆信長の長島攻め
 信長と長島との戦いは元亀元年(1570)に開始されたとされているが、永禄10年、斉藤龍興が長島に入り、北伊勢を攻めている。その時に里村ぞうまという連歌師が富士山を見物に行く。その時に尾張・三河の様子を書いているが、長島が焼けたとの記述がある。おそらく、長島攻めに関連した火事であろう。。
元亀元年には石山戦争が起こるわけですが、顕如が檄文を書かされて対信長戦争への宣言が各地の本願寺・末寺に対してなされる。
 これらには、信長が上洛してきた本願寺は非常に困っていると書かれています。注目すべきは、「若し、無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候也」と、きつい口調で門徒衆に対し、信長戦争への働きかけをしている。しかし、門徒衆全てが従ったかというとそうではなくて、尾張の聖徳寺(現尾西市)では、「其方のこと、別義無く、覚悟の通り聞き届け、執着候」、つまり、本願寺の檄文で、門徒衆や本願寺の末寺は一揆を起こすのだけれども、聖徳寺は問題ないと聞いているので大変めでたいと信長は書いている。
 こうして、蓮如の檄文によって蜂起した一揆衆によって、尾張堀江城で織田信長の弟・信興が攻められ切腹したとの記述が信長記にある。「志賀御陣に御手塞がりの様躰を見及申、長島より一揆蜂起の令、取懸かり、遂日攻申候、既に城内へ攻込み候、一揆の手に懸候ては無念と思召、天主へ御上候て、霜月廿一日、御腹めされ候也」、一揆衆によって肉親を殺された信長は、元亀2年に第1次長島攻撃を開始する。津島と三方から攻撃をするが、5月12日には信長も参陣している。

 信長が長島一向一揆との戦いの中で、虐殺をしたという事実があるが、信長が大館上総介に出した書状には、「彼一揆原所々盾籠之間、攻死べし之処、種々詫言の令に依って赦免候・・・云々」とあり、最初からそうした虐殺の意図は無かったことが分かる。
これと同じようなものを5月13日に徳川家康にも出して、「詫び言を云ってきたので許そう」という姿勢を見せています。
ところが、6月16日に一揆衆を赦免して岐阜へ帰ろうとする途中の信長を一揆衆は木曽川の西側で攻撃を仕掛けています。その時に柴田勝家が負傷し、氏家ト全が戦死します。こうしたことはありますが、元亀2年の長島攻撃の時には、あまり表だって一揆との戦争というのは資料にはみえない。むしろ、周辺を焼いて帰国するところを攻撃されたと考えられる。
 信長は翌年の元亀3年には本願寺と休戦をしている。この時に顕如は門徒達に命じて岐阜城の周辺に要害を築き、同時に道路の遮断と云うこともしており、長島一向一揆衆との戦いが長島一帯だけではなかったことが分かります。また元亀4年には一揆側が美濃・尾張の境のもちだを封鎖したり、放火したりしている。
 浅井・朝倉制圧直後の天正元年(1573)9月に、信長は第2次長島攻撃をする。この時にも直接攻撃しているようにはみえず、北伊勢の国人達に対する戦いと考えられる。
信長記には「信長東別所(桑名)へ御陣を寄せられ、之に依って伊坂・かよふ・赤堀・田辺・桑辺・南部・千種・長ふけ・田辺九郎二郎・中嶋勘解由左衛門(北伊勢の国人)人質進上候て御礼申上候・・・云々」と記述されており、北伊勢の国人達は基本的には信長に従っているのが分かる。
この第2次長島攻めの時に、桑名周辺の諸城を攻め落としているが、美濃への帰国途中に一揆勢の攻撃を受け、林新次郎等が討死している。
 天正2年(1574)7月、第3次長島攻撃を開始します。この時は数万の大軍をもって三方から攻撃しています。7月13日には信長自身も出陣、津島に陣取り、まえのしま、たろとじま、市江島、鯏浦を焼き払い、本格的に長島を攻撃している。これに対し、一揆衆は篠橋(しのばし)、大鳥居屋長島中江長島城に分かれて対抗するが、信長は安宅船で伊勢湾を海上封鎖するなどして、兵糧攻めを行う。
 兵糧攻めを、干し殺し、あるいは干殺しという表現をしていますが、この時の様子が信長記にあります。「勢州の大船数百艘乗入、海上所無く、諸手大鳥居・しのはせ・取り寄せ、大鉄砲を以って塀・櫓打崩攻められ候之処、両城迷惑致、御赦免之御詫言申候と雖も、とても程有るべからず之条、侫人懲為干殺になされ、年内の緩怠・狼藉御鬱憤を散ぜられる可之旨、にて御許容之処無」
ここで信長は、鬱憤を散らす為、許すことはないと云っています。同じく信長が川尻与兵衛に宛てた書状の中で「男女悉く撫切に申付候」とあり、赦免の様子は見えない。また、「色々わび候けにて候、中々取上ましき由堅申付候間、根切為べく候・・・云々」という記述もある。
 第3次長島攻めは約3ヶ月に渡り、この間兵糧攻めが行われるが、8月には大鳥居から逃げ出した一揆衆・男女1,000人ばかりがは、全て殺されてしまう。
8月3日には大鳥居城が落城し、12日には篠橋城も落城します。これらの城に籠城していた一揆衆は長島に追い込まれ、9月29日に最後の戦いが起こる。既に大半が飢え死していたけれども、生き残った者は降伏する。その様子が信長記にみられる「9月29日、御無理申、長島明退候、あまたの舟に取乗候を、弓鉄砲を揃打せられ、際限無く川へ切遂られ・・・云々」
 こうして、一揆側の降伏後の攻撃を、信長は「侫人懲らしめのため」として、徹底的殺害・大量虐殺をする。
一揆を撲滅をした翌日の書状(織田信長黒印状)にて、信長は「信長一人のために非ず、しかしながら天下のために候条・・・云々」と記しており、「天下」を自己の行為の正当性に用いてます。
そして一揆の処罰として、「かの院家ならびに下間親子・平尾坊主父子三人、これらは船に蟄居候を探し出し、目前において首をはね候・・・云々」そして「彼院家ならびに下間父子の首京都へ上せ付け候て、獄門にかけ候へと申し付け候」とある。

 こうして一揆勢を全滅させた後の長島は、滝川一益と信長の二男・織田信雄が支配することとなる。この長島一揆の鎮圧は信長にとって、流通が発達した長島を抑える事により、経済的側面からも大きな意義があった。

以上
    2003年11月30日  文責:箕浦



 近江の城郭に戻る