中世寺院敏満寺の謎〜シンポジウム概要〜

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開催日時:
  2003年11月16日(日)午後15時〜17時
会場:
  多賀町中央公民館

コーディネータ:
  木戸雅俊氏 (滋賀県文化財保護協会)
パネラー:
  小和田哲男氏 (静岡大学)
  土井通弘氏 (滋賀県立琵琶湖文化館)
  中井 均氏 (米原町教育委員会)
  松下 浩氏 (滋賀県城郭研究所)
木戸:
 一口に敏満寺ということでくくってしまっても分かり難いので、時代毎にどんな変遷を辿ってきたのかと云ったところから、敏満寺の謎に迫っていきたいと思います。
 まず、土井さんに敏満寺が成立する時代について、どんなお寺で、どんな所に寺が建っていたのか。想像も含めてお願いしたいと思います。

土井:
 6世紀に朝鮮半島から日本に仏教が伝来して以来、飛鳥、白鳳、奈良と国家仏教が発達をし、奈良の都を中心に多くの七堂伽藍が造られていく。これが我が国の仏教文化のはじめだと学校の教科書などで習う。しかし、私はそういうものが我が国の仏教史の初めだとは考えていない。
 奈良地方を中心に活躍した坊さんは、彼らはみんな山岳修行者で、ある時期に山に入る。これはおそらく吉野だろうと思いますが、山に入って修行して、奈良に戻ってきて一時だけ国家、あるいは天皇玉體(ぎょくたい)のためにだけお経をあげる。長い間平野にいると権力(ごんりょく)が低下するので、また山に入っていく。そういった形で1年間の半分ずつを山と都を往復するような生活をしていたと考えられます。
律令国家が僧侶に期待したものは「水を支配する力」で、天皇というのは農業を統括する一番上にいたわけで、水を支配する力を権力を得た僧侶から、その権力を天皇の体内に移してもらうということを僧侶に期待した。
これは天皇だけでなく、各地で権力を得た人たちによって、在地の農業経営に反映することを期待されたのではないかと考えています。
 多くの寺院が山岳信仰、あるいは山岳修行者を中核として、10世紀や11世紀に営まれているのが中世を生き抜いていった寺ではなかったか。日本の仏教が、個人の救済という問題を相手にするようになったのは鎌倉時代後半になってからで、それまでは個人の救済というものはほとんど出てこない。
当時は、神も仏も一緒、で神仏集合の実体だろうと思います。スーパーパワーを我々にくれる人といった形で拝まれたのだろうと思います。
 敏満寺には、敏満寺童子が出てきます。これは子供ではなく、山岳信仰など修行をしていた人を指して童子と云っていたんだろうと思います。敏満寺も、その敏満寺童子によって基礎が造られたと考えています。
どの程度の規模であったかは、平安期に焼失しており、それ以前のものは全く残っておらず、推測するのは非常に難しい。
 位置については、神仏が同じような期待感から拝まれていたということを考えると、やはり青龍山にできるだけ近いエリアと想定したいと考えています。

木戸:
 近江にはそういった山岳信仰をしているお寺が多いようですが、この地域を選んだ理由はなにかあるのでしょうか。

土井:
 近江は山に囲まれていると云うことと、大事なことは奈良の都、あるいは平安の都から1日から1.5日で行き来できるエリアということがミソだと考えています。もうひとつ、日本の宗教史の中で大きな欠落となっているのが、明治5年に修験道禁止令が出されて、徹底的に修験道が弾圧され、昭和40年頃までは修験道についての研究がほとんどできないと云う歴史があります。つい最近、大阪市立美術館で修験道の展覧会が、初めて行われたような状態で、近代史の中で修験道について云々することがほとんどされてこなかったゆえに、日本の宗教史、特に中世の宗教史は非常に貧しい内容である。
 敏満寺が修験童子的な寺であると、もし分かっているなら、日本の宗教史を解明していく上で大きな要素になるのではないかと考えています。

木戸:
 考古学的に敏満寺の年代を示すもので一番古く遡るものは、どう云うところでしょうか。

中井:
 専門は中世考古学で、古いのはあまりよく知らないのですが・・・。今まで幾つか発掘調査をされていると思いますが、京都で平安時代の六勝寺(りくしょうじ)で使われるような瓦当(がとう)文様が流行する時代があるのですが、その瓦当と似たものが敏満寺から出ているので、おそらく平安後期から鎌倉初期にかけては、瓦葺きの屋根のあるお堂がこの近辺に造られていたと云うことは間違いないと思います。
もう一つは、米原町の松尾寺という山岳寺にも松尾童子というお坊さんがいて、ここも高い山に造られている。遺構は城郭的なものはなく、戦国期に造られた坊跡ばかりで、平安時代の遺物の出るところは1カ所しかない。おそらくお坊さんが修行する場所だけではなかったか、ということが考えられる。
 伽藍というか、お堂を建てられたのが、おそらく12世紀ぐらいになるのではないかと思います。石仏谷では、中世の焼き物や蔵骨器(骨壺)が出ている。これも今まで見せて頂いているのは12世紀頃のものが一番古いのですが量が少ない。圧倒的に多いのは13〜14世紀のもので、敏満寺を語るときには重要な遺物として位置づけできる。つまり、12世紀頃瓦葺きのお堂が成立し、13〜14世紀にお寺に係わった人たちが葬られた蔵骨器が出てくるのではないかと思います。

木戸:
 けんとう紋という瓦が12世紀の終わりぐらいの瓦で、この時代には瓦葺きの堂があっただろうと考えられるといことですね。
石仏谷で発見されている蔵骨器の上に石仏が並んでいますが、その出土遺物を見ていると、一番古いものは12世紀に遡るわけですが、13〜15世紀の蔵骨器が納められていることに疑問を抱いています。
確認されている坊具や坊舎は敏満寺の一番栄えていた時期かなと考えていますが、石仏谷の石仏は16世紀のものではないのかと考えているのですが、中井さんいかがですか。

中井:
 その通りで、石仏谷にある石仏は地蔵さんはほとんどなく、阿弥陀仏なんですが、13〜14世紀を主体とする中国の焼き物、あるいは日本の古瀬戸,常滑と云われる焼き物とは、200〜300年から年代差のあるものばかりだと思います。

木戸:
 仏さんは16世紀ぐらいで、地面の下から出てくる蔵骨器は200〜300年遡るということになると、ギャップがあるわけですが・・・。
13〜14世紀に敏満寺が栄えていたと云うことになると、12世紀以後に文献に見られるように堂が再興されたんだと云うことと合致するのですが、石仏だけを見ると、もっと時期が後ではないかとも考えられるのですが、その辺り土井さんいかがでしょうか。

土井:
 お寺の履歴を考えていくと、昔から同じ姿で今も伝わっているという歴史を有するお寺というのはまずありません。
創建当時の性格をそのまま残しているものは、そのまま現代まで伝わっていない。お寺というのは古い文化を伝えながら、その時代時代の要求に基づいて姿を変えていくと云うのがお寺のあり方だろうと思います。

 蔵骨器(骨壺)は12〜 13世紀が量的に多い。しかし、石仏は16世紀のものが圧倒的に多いということですが、石仏谷の遺跡が単一の土地利用とは考えられないという気がする。あの場所が草創的に係わる場所であったとは思いますが、骨を埋める場所、日本の葬送のあり方というのは "うめばた"と"まいばた"という観念の二つがあったと私は考えていますが、うめばた的な要素の広場と供養するための広場へと変わっていくのかなと少し感じた。

小和田:
 率直な感想としては、あそこは墓地と云うことで、関係ない人も石仏を持ち込んだ可能性もあるのではないかあというのが一点。それから静岡県の磐田市の一ノ谷中世墳墓群の保存運動の会長をさせて頂いた経験からすると、いわゆる"しじこう"みたいな、はくさい陶磁器だとか、瀬戸・美濃のような良い陶磁器を使って葬って貰えた人はかなり身分の高い人だと思いました。
敏満寺では13〜14世紀に亡くなった、それもある程度高貴な人のお墓だろうと思いました。
 200年ぐらいの差があって、16世紀になってなぜ石塔物があれだけ増えるのかということですが、石塔物の歴史というものを調べていくと、静岡の例では墓石的なものとして使われてくるのは比較的新しくて、集積墓といういって石を集めてその下に蔵骨器を埋めるものはやや古い葬り方。こうした葬送の歴史の変化が石仏谷を精査すれば出てくるのではないか。
 地方の寺院というのが、その土地にどれだけ影響力を残しているかと云うが、お墓がどれだけあるかということだろうと思いますが、その場合、石仏谷の墳墓群は全国的にも注目すべきものだろうと思いますし、土井先生から話がありましたが、そこに縁を持つ人が供養のために、あそこに持ち込んだという側面を考えていく必要があろうかと思います。
もう一点、新谷家系図にもありますが、坊が120あったという点からすると、それがある時点で潰されていく、他に土地利用されていく。そんな坊の石仏が運ばれて現在のような景観になった可能性もあるかなと考えています。

木戸:
 次の時代になりますが、1988年に名神高速道路が通るということで敏満寺遺跡が発掘されて遺構が出てきた。遺跡名が敏満寺遺跡ではあったのですが、実際に見てみると寺ではなく城であった。敏満寺城について中井さんに整理をして頂きます。
敏満寺は寺ですか、お城なんですか。

中井:
 敏満寺遺跡はお城です。独立した城です。寺院の城塞化とか、あるいは寺院が堀によって防御していると云うことではなく、敏満寺遺跡がひとつの城であって、それが敏満寺を覆って守っていると云うことではない。独立した城であると云うことが非常に大事だと思います。
 近江の金剛輪寺は寺全体を守ろうとしている。あるいは、山科本願寺は本丸,二の丸といった構えを持っている。敏満寺遺跡というお城は敏満寺から派生した寺屋敷一画の尾根の先端だけを掘切って、独立させて土塁で囲って城として造っているわけで、城塞化ではなくて、あれは敏満寺城としたほうが分かりやすいのではないかと思っています。

小和田:
 城郭寺院とか、寺院城郭とか、そんな表現をすることがある。三河一向一揆の時の岡崎の勝鬘寺(しょうまんじ)だとか、本證寺(ほんしょうじ) は寺のまわりに堀を巡らして、しかもお寺でありながら、まさに櫓とし考えられないような建物があったりする。そうすると寺だけど意識的には城だとう云うところは結構ある。弥高寺遺跡なんかも、お寺なんだけれども意識としては城だというものが、全国に結構あります。
 敏満寺は敏満寺として別にある、敏満寺のハズレで、敏満寺集落の見晴らしの良いところに敏満寺がお城を造ったのが敏満寺遺跡ではないか。
では籠もったのは誰か。敏満寺には根来寺の行人方(ぎょうにんかた)と呼ばれる僧兵集団がいたように敏満寺にも僧兵集団がいたと考えられ、そういった僧兵集団が主力にはなるんでしょうけれども、近くの在地武士と敏満寺僧兵が敏満寺城に入って敵対勢力と戦ったのではないか。

木戸:
 寺を改造して城としている、あるいは寺が城となっている等、言葉上はややこしいのですが、ここに駐屯したのは誰か、あるいはこの城を造ったのは、浅井氏と織田氏とのしのぎ合いの中で築かれたのか、はたまは織田が攻めてきたから、この城を造らなければならなかったのか。

中井:
 土器の年代というのは、例えば墨書に「これは何々が何に使ったものや」ということが書いてあるものがたまにあります。ところが敏満寺からの土器にはそのようなものはない。となると、考古学で土器の一形式の年代というのが、どれぐらいのスパンかというと、おおよそ25年ぐらい。100年を20年から25年に4〜5期に分けるのが精一杯。
これから議論になるのは永禄3年、若しくは永禄5年か、元亀3年で10年しかない。これを土器で決めるのはまず不可能である。
城郭の年代はどうかということですが、城郭の年代で決定的に年代が決められるようなものは虎口で、1988年の発掘段階では敏満寺の虎口は「1折れ」で入る空間というのは、おそらく永禄の段階では出現しないだろう。城の虎口の年代から云うと、より元亀3年の織田信長による敏満寺攻めに近いのではないか。

木戸:
 では、枡形,石積みを造れる勢力は誰なんでしょうか。

中井:
 虎口は良い出来なんですが、城郭自身がテクニカルなものかというと、そうではない。しかし後方の堀切は三重になっており、堀切としては見事だ。幅も非常に広い。そういう意味では戦国期の伝統的な作り方をしている。おそらく在地で造れるだろう。
各地の在地の土豪達と敏満寺と一致団結して、対信長戦を戦っていくんだと出来上がっていったのではないか。
 石積みに関しては武士側の発想ではなく敏満寺というお寺の石積みの方法だろう。初期的な石積みであり、観音正寺などに認められる近江の中世寺院の技術ではないか。

小和田:
 永禄5年の浅井攻撃に備えて造り上げて、地域の土豪達が寺では防御できないと少しずつ造っていったところを織田軍の攻撃を受けたという、永禄5年から元亀3年の間という折衷案です。なぜ在地の力で造られたと云えるのかというと、九徳城の存在と併せて考える必要があるのではないか。久徳城は平城で規模も大きくないので、平山城に築いたが敏満寺城ではないか。詰めの城ではないのだけれど戦闘に適した城を造ったのではないか。

土井:
 松下さんが云われたように「敏満寺は本当に信長に敵対したのか」ということが、この敏満寺城の成立時期を考える上で大きなポイントになるのではないか。

松下:
 信長は古いものを壊して、新しいものを造ったというのが一般的なイメージで、敏満寺についても同じことが云えるのかなと思います。元亀争乱の時に、信長に焼かれたお寺も結構あるようですが、どれだけ信長に焼かれたのかというのは検証していく必要があると考えています。
 中井さんの元亀年間説には納得したが、もしかして信長側が使った可能性はないのだろうかということを思ったりもしています。
敏満寺が寺としていつまで存続・活動が見られるのかということも考える必要がある。、織田が入ってきた頃には敏満寺跡しか無かったのではないか。そこに織田方が城を造ったと考えられないか。

小和田:
 信長というと寺院を焼き尽くしたとされますが、焼き討ちなら比叡山のように本堂なども焼き尽くしてしまうのですが、西明寺は本堂が焼けていない。ある程度攻めて屈服すれば許すといった側面はあったと思います。
松下さんの敏満寺が信長の攻撃まで存続していたかどうかは重要だと思います。私自身は敏満寺は信長の時まで力を持っていて抵抗したんだと考えていたが、そうでないとすれば在地勢力が敏満寺という地域に城を造って信長に抵抗したという位置づけになってくる。
敏満寺がいつまで存続していたのかという研究はこれから大事になるという印象を持ちました。そうして見ると、信長が造ったにしてはちゃちかな〜という気がしないでもない。

木戸:
 敏満寺の場合、寺、城、坊の位置が明瞭に決まっているようなところが見受けられます。この辺りで中世の宗教都市のイメージについてはいかがですか。

小和田:
 近江の面白い点は山岳仏教としてお寺が多い。それらが山城として使われている。そうした中でも上平寺城や根来寺、とくに根来寺は宗教都市といった良い状況があった。吉崎御坊山科本願寺もそうだし、お寺を中心にした寺内町があるが敏満寺周辺は注目すべき材料を持っていると思います。
 寺、坊があって、それを支える鍛冶屋とか鋳物師といった職人集団も属していただろうし、農民達がどのように係わっていたのか、敏満寺というのは重要な研究素材になるのではないかと思っています。

中井:
 1987年に県教育委員会が敏満寺を発掘した当時、周辺の発掘もされた。名神高速の下りのサービスエリアの山側に一般集落ではない、注水枡があったりして我々では理解できない様な遺構がどんどん広がっていく。お寺のお堂ではない、農民が住んでいるようなものではない。谷間を段々に削っていってほったて柱の建物を造っていくようなものが点々と調査されている、その時期はおおよそ15〜16世紀でありますから、お寺と城だけではなく、職人集団がいた場所、根来でも白山平泉寺でも、そういった遺構が発見されていますから敏満寺でも宗教施設を核にしながら、城に寄生するような人たちが儲かるということで集まって、都市を形成していくといったことがあったのではないかと思っています。

土井:
 宗教都市というと我々、寺内町のことだと早合点をするのですが、我が国の都市というものは大陸の都市と日本の都市とは全く機能が違う。
 都市と云うエリアは、在地を離れて情報が抽象化した形で集まってくる所で、在地性を色濃く持っている情報というのは、在地でしか役に立たない。それを抽象化されたものが集まってくるところが都市だと考えています。
 敏満寺の場合は敏満寺という宗教施設を核として情報を抽象化する機能を持っていたと考えると、勧進・・たちが諸国を徘徊して集めてきた情報網が南北朝を越えて中世末期に至るまで情報、あるいは近世勢力を脅かすような情報を操作する機能を持っていたのかなというような気がします。そうしたものを敏満寺が持っておれば、宗教都市と認めても良いのではないか。

木戸:
 近江にも中央勢力が造った町が出現していくところがあるのですが、そういった観点から松下さんのご意見はどうですか。

松下:
 信長が造った安土のように、権力が造った町ではなくて、在地で発生してくる人が集まる場というのは、近江の場合は中世の場合はたくさんあった。信長はそういうものを権力で造ることによって吸収していくようなことをした。楽市楽座というのは、まさしくそのものだと思います。近江には自立的な存在としての町場としての都市があったのだろうと思います。

木戸:
 まとめてみますと。最初は修験道を中心としてお寺が始まって、次第に有力者がひっついてだんだんとお寺が大きくなっていった。それが大きな経済力を生んで120を越える坊舎が出来、そこに人が集まり、物が集まり、大きな権力を持つようになった段階で浅井、もしくは信長に痛めつけられた。といっった感じで時代の流れが感じられるのかな。
 最後に一言、今後こう云うところをもっと知りたい、多賀町にこういうことをやっていただきたいと云うところがあればどうぞ。

松下:
 資料が少ない、分からないことが多いので資料調査を精力的にやっていただきたい。これは私に与えられたことでもあります。

土井:
 資料が少ないと言うことは、夢が膨らむという場合もあります。しかし、地に足を着けた論議が難しい。資料というのはそれぐらい大事なもので、未発掘の資料というのがあるはずですから、そういったものを大事にしながら、多賀町が近江の歴史の中でどういった役割を果たしたのか、日本の歴史の中でどういう役割を果たしたのかを考えていく上での資料探し。そしてそれを大事にしながら保存していくことを今後ともやっていただきたい。

中井:
 敏満寺城は焼けている。それは浅井か信長かという問題はあるにしても焼けているということが1点。自焼けは中世の歴史の中で度々出てくる。要するに降伏する場合もある。焼けているから戦に巻き込まれて負けたというだけではなく、自から焼いたということもある。焼けたということの事実だけで、その背景に戦で焼けたのか、それとも自焼けしたのかという問題が残っている。
この問題は、城割、破城に決着をつけ、敏満寺城の性格が分かってくるのではないかということで、自分自身の課題としたい。

小和田:
 石仏谷の風景というのは、国の史跡などにして後世に残して欲しい。敏満寺城はサービスエリアになって城の雰囲気がない、中世の城があったんだよというような整備が考えられないかな。
 敏満寺が重要な寺院であるということが、益々浮き彫りになってきたわけですから、地元でも研究会みたいなものを作って継続的に研究してほしいと思います。その流れの中で、地名から辿っていく手法もあるので、宗教としてまだ手つかずになっている敏満寺の名前を全国化していくところで力を発揮していただきたいと思います。

                                                                      以上
   2003年11月21日  文責:箕浦

  ・シンポジウム参加報告
  ・敏満寺遺跡石仏谷現地説明会概要


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