敏満寺遺跡石仏谷現地説明会概要

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林清一郎(敏満寺史跡文化保存会)からの概要説明
地元で敏満寺の研究を続けておられる林氏

 青龍山(333m)の頂上に磐座(いわくら)という神社形態があります。1200〜1600年ほど前は、まだ仏教が到来していなかった。周辺の住民はこの山を神として、磐座として礼拝した。
その後、山上は山の上の宮、麓を遥拝所として建てられたのが、この胡宮神社です。
約1500年ぐらい前のことだと思います。
約1250年ほど前に奈良に東大寺が初めて建立された、聖武天皇が大仏殿が竣工するお祝いにここのいむまの荘の土地を東大寺に寄進された。いむまの荘荘園図は正倉院の御物として今も残されています。
敏満寺はそれ以来、奈良の東大寺とただならぬ関係を持つことになりました。
1150年前に、敏満寺が建立されました。敏満寺はそれ以前には湖東山脈方面では奈良の興福寺を中心とした関係のお寺があった。
延暦寺が出来て天台の関係のお寺が出来る時に、伊吹山の観音寺と共に敏満寺というお寺が創建されました。
平安時代から京都を中心とした小野道風(おののとうふ)の書いた神社の下乗物(石)がある。

 敏満寺が出来たら400年ぐらい経ってから、源平合戦で東大寺が焼けた時に重源(ちょうげん)という上人が、ここが東大寺の荘園であったことから、再建するための協力を要請し敏満寺は相当な協力をしたとされており、重源はここに日本に三つと無い金銅の舎利塔(需要文化財)を寄進されています。こうしたことで、東大寺との関係が代々続いている。
 さらに441年前に敏満寺は浅井長政に焼かれてしまう。その原因は長政が久徳城を攻めたときに、敏満寺の僧兵が久徳を支援したためでる。
浅井長政に焼かれ、復興したときに織田信長によって湖北の寺などと共に敏満寺もまた焼かれてしまいます。サービスエリア一帯40数坊があったといわれますが、そのほとんどが焼かれてしまいました。
 その後、関ヶ原の合戦後、井伊直政が彦根城を築城するために礎石などを全て持ち去っていますが、山門の礎石12ヶが残っています。

石仏谷の現地説明
 青龍山の山頂に磐座(いわくら)と云った大きな岩を祀って、信仰の対象になっていたと云われている、その青龍山の標高171mぐらいの山裾の西側に墓が造られている。西側に湖東平野が広がる谷の間に挟まれた所に墓が造られている。

石列があり、川原石が見られる。おそらく道の入口が一番古い段階に造られた墓ではないかと考えられます。
入口を削平し、川原石を並べて墓を造っている。墓は枝分かれしていくように雛壇状に造られている。

 発掘調査はしておらず、具体的なことは分からないが地表面から採取した土器を見てみると12世紀の終わりから15世紀の終わりの土器が見つかっている。
地元の人は地蔵があったとしていたが、ほとんどが阿弥陀如来像で、一体だけ地蔵菩薩が見つかっている。
これらを見ると石仏や、ひとつの石で造った一石五輪塔もあるが16世紀台になる。しかし16世紀台の土器は見つかっておらず。使われたのは石仏がおかれた16世紀台を中心に墓が使われたと考えている。
信長によって攻められ衰退し、滅亡しましたが、その頃からこの墓が使われなくなった状態で現在に残されていた。
中世墓という当時の姿を残した状態であるのは貴重なものである。

林の中に平坦な面には堂が建っていたと考えられ、中世史を考える上で重要であると考えられる。
 見つかっている蔵骨器は瀬戸物、常滑とか、庶民には手に入らない貴重な壺を使って埋葬されており、被葬者は宗教都市の有力な人物と考えられます。なお、石仏、加工していない部分が残っており、川原石を部分的に加工して使われいます。
 以上のことから、石仏は後世になって信仰の対象として庶民が供養のために納めたと云う可能性が考えられます。

 この敏満寺の周辺には、発掘の結果、城があり、商工業をした町屋の一画があり、宗教都市があったと云うことが分かってきています。

2003年11月22日  文責:箕浦

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  ・シンポジウム 中世城郭敏満寺の謎


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