平成16年度特別史跡安土城跡 発掘調査現場から
現地説明会開催日:2004年11月7日(日)

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 平成16年度の大手道東側の蓮池周辺の現地説明会は、九州に遠征していたため、残念ながら参加出来ず、発掘調査報告の概要も掲載することが出来ませんでした。
その後も、蓮池周辺は立ち入り禁止措置が継続されており、現地の状況を確認することが出来ませんでしたが、3月5日に訪城した時には、この立ち入り禁止措置が解除されていましたので、早速現地の様子を見てきました。
16年度の調査結果のポイントについて写真を交えて紹介します。

 平成16年度の発掘調査結果のまとめは、現地説明会の資料によると下記のようです。
(1) 蓮池周辺地区東半部でも、一辺約15m四方の隣接する郭が一つのまとまり(ブロック)を形成し、これらが溝や石垣に画されて東西に並ぶことが確認された。

(2)確認した虎口状遺構4箇所のうち、二つの虎口状遺構(bQ,5)は石段のあり方から見て郭への入口であったと思われます。一方、虎口状遺構(bR)のひとつは、単郭の穴蔵的な施設であった。

(3)郭内については、平坦面が大部分に亘って開墾されていたために、塀などの基壇を確認出来たものの、建物遺構などの具体的な構造は明らかには出来なかった。

(4)城内路については、通路4(文章では適切に表現出来ないため、あえて資料通り「4」と表現)や旧県道部分が城内路でない可能性が強くなった。
              bRの虎口部
              


               bRの虎口部(奥)とbSの虎口部(手前)
                 

 上記、(1)〜(4)項の中で、最も興味深いのが(2)項の、虎口状遺構が4箇所から検出されているという点です。
現地で確認した限り、「これが虎口か、云われてみれば、まあ虎口やなぁ〜」といった状況で、大手路の東西で発見された四つの虎口とは、構造上も、性格上も全く異なるものであると私は感じました。これは調査報告書でも、郭への入口に使用されていたと表現されている通りです。
 明らかに石垣が崩れている部分にも、崩れ落ちた石が見あたらないような状況で、全体的に開墾された当時に相当な改変を受けているようで、発掘調査から結論を導き出すのに、県も相当苦労されたと感じました。(^^)

 まあ、16年度の発掘調査は、あまり大きな成果は得られなかったというのが、本当のところではないでしょうか。
以上、私の所感を交えて16年度の発掘調査現場の状況報告でした。

2005年3月5日 文責 箕浦


【2005.5.22追記】
 平成16年度の安土城跡調査は、伝江藤邸跡から能登川側の北腰越に懸けての蓮池周辺の郭群について調査が行われましたが、現地説明会から約半年、調査報告書がまとめられましたので、その概要をお知らせします。
 
 ・調査の結果、雛壇の造成は一部に後世の造成があるものの、基本的には安土城当詩の景観を維持している。
 ・蓮池周辺地区は雛壇状の小規模な平坦地が密集することから、従来、中・下級家臣団屋敷跡と推定されてきたが、西端は、東側の雛壇造成区と虎口を持つ石塁で画され伝江藤邸跡の帯曲輪の一角であったごと等が確認された。
 ・雛壇造成の個々の平坦地は、一辺約十五メートル前後の規模で谷筋や水路で東西を区画され、上下段を一体的に築いた石垣や上下段をつなぐ石段をともなう虎ロ状遺構等から、個々に独立したものではなく、上下や左右の平坦地が複数で一つの機能を発揮することを前提に企画性をもってつくられたと想定できる。

 等の点から、中・下級家臣団の屋敷跡とは考え難く、その性格や機能等については、背後の切岸の前面にあって、西の伝江藤邸跡や東の伝御茶屋平と伝わる出丸に関連した城の外郭と防御のための空間ではないかとみられている。
 また、東内堀の北岸いっぱいまで施設群の敷地として使い、東内堀自体が城の外郭を形成していた可能性が高いことがわかってきた。

  以上から、安土城の南面景観は百々橋側地区と蓮他周辺地区で郭群の在り方自体異なってはいるものの、その性格や機能は、堀の外郭区域にあって城の維持防御のための郭群であったという点で共通しているが、伝江藤邸跡を中心に、東西で大きく異なっていたことが明らかになった。




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